念仏、そして世界平和の祈り

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   122ページ4行目から123ページ3行目まで >

『  親鸞は、悟りとか救いとかいうものは、
業想念の波を相手にして、いいの悪いのと言っていたのでは、
いつまでたっても、成就するものではない、

この業想念波というものを、一切相手にしないことによって、
初めて悟りとか救われの道とかに入り得るのだ、
ということが判っていたのです。

業想念波を相手にしなければ、
相手にするものは、神仏よりなくなってきます。

神仏だけを相手にしていれば、
自分もいつの間にか神仏と等しいものになってくるのは必定です。

そこで、幸いに法然上人という偉大なる師が現われて、
自分より先に、そうした原理を説いて、
念仏一念の生活に大衆を導き入れているのを知り、

すっかり感動して、弟子入りして、法然の教を一歩進め、
自己を一般大衆と同じ立場に落して、
体験としての易行道(いぎょうどう)の教を開いたのであります。

法然門下には傑出した人々がかなりいたのですが、
親鸞のように、自ら一般人と同じように妻帯して、
俗人と同じ立場に身を置く程に易行道に徹した人がいなかったようです。

この辺が親鸞をして今日まで不朽の名を残さしめている所以でありましょう。

大衆は自分たちの身近な行為の人として、
親鸞に親しみをおぼえているのであります。  』


< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   116ページ4行目から118ページ3行目まで >

『  今でこそ僧侶の妻帯などなんでもないことですが、
その頃において、公然と妻をめとったということは、

あらゆる世間の嘲笑罵倒を覚悟の上、
僧侶としての信用下落も覚悟の前という大決意をもってなされたもので、

親鸞の自己をいつわらぬ、
肉体界における人間生活の本然の生活をはっきりと打ち出した上での、
宗教活動に挺進しようという、
すさまじいまでの真正直な姿がその行為にはっきりとみられるのです。

≪ 中略 ≫

親鸞のように、真正直に自分の心を見つめ続けている人にとっては、
どんなに精進しても、どんなに努めても、
人間の心には執拗に業想念がからみついていることが判るのです。

≪ 中略 ≫

どうしても空(くう)のままの、澄み切った想念行為で、
いつの日も暮らしていられるような人間にはなれない。

何かしら、いつも心にわだかまる想いがある。

親鸞にとっては、そうした少しのわだかまりでもが、
神仏に相済まぬ悪い心と思えていたようなのであります。

そして、そういう風に思えたればこそ、
自己を罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫として、

一度は本心と切り離して、いかに自分が精進して、
自力をもって、自分の心にまつわる業想念をふりはらおうとしても、
とても本心そのまま、み仏そのままの生き方ができるものではない。

自分は兎にも角にも、宗教学をさんざん修め、
様々な修業をしてきた人間だが、
その自分さえ、こんなに業想念を自力ではらうことができないのだから、

一般の人々、日常の生活に追われて、
まとまった修業のできない人々にとっては、
なおさらに自力で業想念ははらいきれない。

だから、すべての想念行為を、
善いも悪いもすべて南無阿弥陀仏の唱名に乗せて、
阿弥陀仏(神)の光明の中に投げ入れてしまい、

阿弥陀様の方から、改めて自分の全生活を頂きなさい、と、
自分の心の遍歴を通した実感として、
易行道念仏の道を説かれていたのが、親鸞の姿であったのです。 』


< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   23ページ14行目から25ページまで >

『  念仏も世界平和の祈りも、深い原理においては等しいのでありますが、

世界平和の祈りは祈りの言葉そのものが、
現代人の誰にでもはっきり意味の判る言葉であり、

その言葉は、何人も異議を申立てることの出来ない内容をもっていることが、
念仏より一般的であり、世界各国人にも理解出来る言葉でもあるのです。

もし米国人が祈る場合には、日本というところを米国とすればよいでしょう。
( 註……この祈りの日本の平和というところの日本という意味は、
  この島国日本という意味ではないのですが )

しいて誰かが文句を言うならば、
何も守護霊、守護神などと言わずに、はっきり神と言えばよいではないか、
神は世界に一つなのだから、余計な霊や神を想う必要はない、
というところでしょうが、

この守護霊、守護神への感謝行こそ、
この祈りの一番意味深いところなのです。

しかし、その名を言うのが嫌な人は、
只、神様ありがとうございます、でも結構でありますが、

そういう人々でも、やがては、守護霊、守護神への感謝行が如何に大切であり、
守護霊、守護神が如何に人類を守り続けて下さるかが、はっきり判ってきて、

いつの間にか、神という言葉の中に、
守護霊、守護神の存在を認めざるを得なくなることでありましょう。

神は一神であって多神であることを忘れてはなりません。

また、我等の祖先や先輩霊が、人類救済の為に、
一心に我等の本心開発の指導者として働いておられることを忘れてはなりません。

私は世界潰滅の危機を救うのは、
自我の想念を世界平和の祈りの中に投入して、
日常茶飯事のうちにもその祈りを続けてゆくことを根柢にしての
生き方でなければならないと確信しているのであります。

自己をも世界をも同時に救う方法、
それは世界平和の祈りによる他はないと思うのです。  』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

五井先生は常に、
「 たとえ何があろうと、どんな想いが出てこようと、
  神様( 守護霊守護神 )の中へ入りなさい 」
ということを教えて下さっていますが、
ある講話集の中で、次のようなお話をなさっています。

「 そういう風に教えた一番初めの人は日本においては、法然上人です。
  それを受けついだのは親鸞です。
  人間というものは、いい事をしようと思っても悪い事が心に浮んでくる。
  あれを憎むまいと思っても憎む想いが浮んでくる。 ≪ 中略 ≫
  罪悪深重の人間がいくら努力しても、
  いくら修行したって、少しは消えるかもしれないけれど、
  いつまでたっても一向に消えやしない。
  それよりも、罪悪深重の凡夫のままで、悪いものを持ったままで、
  怒りの心を持ち、妬みの心を持ち、業に流れる心を持ち、
  そういう想いを持ったままで、
  阿弥陀さま!と言って阿弥陀さまの中へ入っちゃえば、
  阿弥陀さまは光一元だから、光明如来だから、
  どんな汚れも、どんな罪もけがれも一ぺんに消えちゃうんだ。
  だから阿弥陀さま、と思いなさい、
  南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言いなさい、と
  こう教えたのです。 ≪ 中略 ≫
  それをもっと言い換えれば、
  阿弥陀さまではキリスト教の人は困ります。
  日蓮宗の人も困るでしょう。神道の人も困るでしょう。
  そこで守護霊さん守護神さんという、どこでも使っている言葉を使い、
  守護霊さん守護神さんと言えば、
  その中に自分の想いが入ってしまうのだから、
  守護霊守護神の救世の大光明をけがすほどのものはないのだ、
  守護霊さん守護神さん、というふうにすがりなさい、
  と教えているんです 」
                  ( 「 明るい心 」 71ページから73ページより )

私は、五井先生のご著書を読むようになってから、
法然さんや親鸞さんに親しみを覚えるようになりました。

今、守護霊守護神様の中で世界平和の祈りを唱えながら、
「 守護霊様守護神様、五井先生は
 〝 世界平和の祈りには、あらゆる聖者賢者が結集して働いておられる 〟
  と教えて下さっていますが、もちろんその中には
  法然さんや親鸞さんもいらっしゃるのですよねえ 」
と語りかけると、守護霊守護神様は深くうなずいて、
【 今もここに来て下さっていますよ 】
とおっしゃっているような気がしました。
私は嬉しくなって、身体がポカポカしてきて
また、何だかとても楽しくなってきました。

「 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……ありがとうございます……
  世界人類が平和でありますように ― 」

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうかこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和

実際に、神の大光明が輝きわたっている祈り言ですよ

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 愛すること 」
   261ページ12行目から268ページ7行目まで >

『  私は、神のみ心に叶わぬこと、
間違ったと自分で想ったこと、
他人からこうむった不快なこと、
病気も不幸も災難も

すべて、過去世からの宿業の消えてゆく姿と思い、
その消えてゆく姿を、守護の神霊への感謝の想いとして祈りなさい、

そして、次にはもう自分を責めたり人を裁いたり、
不幸をなげいたりしないで、祈りつづけなさい、というのです。

人間には、どうも自分をかばう本能がありまして、
つい相手のせいにしたりしがちなものですし、
人によってはなんでも自分の悪にしてしまう向きもありますが、

そういう風に、自分にしても他人にしても、
悪や不幸をつかみきりにしておいてはいけないので、

それを消えてゆく姿として、
神のみ心の中で消滅してもらう祈りをするわけです。

私は浄土門の教えをよし、とみておりますが、
どこがよいかといいますと、

すべてを阿弥陀仏のみ心の中で
昇華(高められ浄められること)していただくというところなのであります。

阿弥陀様におわびして、
すべてを阿弥陀様からいただき直す瞬々刻々の生活ということは、
実に凡夫にとっての救いであります。

浄土門が生れた鎌倉時代は、
現世の生活が、どうにも浮び上りようのない、
貧しい厳しい生活の中にありましたので、

現世での幸福を望む想いを捨て切って、
来世であるいは仏の世界で救っていただこうと真剣に想いこみ、
南無阿弥陀仏を唱えたのであります。

それだけにひたむきで純粋であったと思います。

≪ 中略 ≫

現代における宗教は、
学問知識のない人にでも知識階級の人にでも
同時にわかる教えでなければならぬと思うのです。

南無阿弥陀仏に抵抗を感じる人でも、
世界人類が平和でありますように、
の祈り言になら抵抗を感じません。

私の宗教は、神道も仏教もキリスト教もすべてを包含した総合宗教です。

そして、個人と人類が同時に救われる道というところに特長があります。

そして、他の宗教によくあるような、力んだ祈り方はありません。

南無阿弥陀仏と、
阿弥陀様にすべてをおまかせしてしまったような
気楽なのびのびとした気持で、世界平和の祈りをするのです。

どんなに個人の願いごとであっても、
言葉に、世界人類が平和でありますように、と唱えるのですから、

自ずと、世界人類の平和を祈願するひびきが、
言葉のひびきとして宇宙に放射されます。

ですから、自分の想いでは、
自分の病気治癒の祈願であったり、商売繁昌の願いであっても、

それはそれなりに神のみ心の中に入ってゆくし、
それとは別に、世界人類の平和を祈るひびきが、
言葉のひびきとして、宇宙を経巡ってゆくのであります。

≪ 中略 ≫

現代の宗教の祈り言、唱えごとは、
やはり現代人に理解されやすく、
他人にきかれても恥ずかしい想いをしないですむものがよいのです。

世界人類が平和でありますように、
この祈り言は、どんな人の中にあっても、どんな会合の中でも、
少しも不自然でも不愉快でもない言葉です。

一日も早く世界が平和になるとよいですね、
戦争は二度と嫌ですね、
などという、当りまえの日常茶飯事にいいかわす言葉を、

よいですねなどという生やさしい言葉でなく、
祈り言にまで高めあげて使わなければいけないのです。

≪ 中略 ≫

この文章をはじめてお読みになった方は、
まあ、何もしないよりは増しだろうぐらいな気持ちで始めてよいのですから、
おやりになって下さい。

初めはそれでもよいのです。

いつの間にか、この祈り言の力に気づいてきます。

自分の生活がなんとなく明るくなってくる、
愛が深くなってくる、というように、
何かしら自分や自分の家族が善い方向に変ってくるのに気づき始めます。

何故そうなるかと申しますと、
この祈り言には救世の神の大光明がひびきわたっているのです。

神という言葉を使わなくとも、
世界人類が平和でありますように、
というような広い人類愛から生れ出た言葉の中に
力のないわけがありません。

しかし、実際に神の大光明は、
この祈り言葉の中で輝きわたっているのであります。

これは私達同信の人達の等しく観じているところなのでありますし、
同信でないなんの関係もない霊能者の霊眼にも、
その大光明が観じられている事実が何度びとなくあるのです。

この祈り言は、会社の往きかえりの電車の中でも祈れるし、
歩いていても、寝床の中で祈ってもよいのです。

この祈り言葉はよくわかって良いな、と軽い気持で祈っても、
いつの間にか、個人的な善い影響が現われてきますし、

個人の現世利益のために祈っても、
そのまま世界人類のための祈り言にもなっているのであります。

個人人類同時成道の祈り言であることは、確かな事実なのです。 』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

今回の文章の中に、
「 私は浄土門の教えをよし、とみておりますが、どこがよいかといいますと、
  すべてを阿弥陀仏のみ心の中で昇華(高められ浄められること)
  していただくというところなのであります 」
と書かれていますが、
五井先生のご著書の中には、法然や親鸞の念仏の話がよく出てきます。
ある講話集の中では次のようなお話をして下さっています。

「 南無阿弥陀仏といえば自分が救われる、
  死んでから極楽往生すると昔いっていた。
  本当は南無阿弥陀仏といえば
  生きている時でも極楽往生しているんです。
  なぜ南無阿弥陀仏というと極楽往生するかというと、
  南無阿弥陀仏というのは神様と一つになるという意味、
  私は神の子であるという意味なのです。
  南無(なむ)というのは帰命(きみょう)する、一つになる。
  阿弥陀仏というのは阿弥陀様。
  阿弥陀様というのは神様のことです。
  阿弥陀というのは宇宙に充ち充ちる光ということです。
  阿弥陀様と一つになるということは神様と一つになることと同じです。
  だから神様と私は一つである、とこういう意味なんですよ。
  それをお願いするような口調で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という。
  本当は神様と私が一つでありますように、という意味です。
  そう思って、いつもなにか恨みが出てきても、病める想いが出てきても、
  みんな阿弥陀様にまかして、
  南無阿弥陀仏とやりさえすれば本当の効果があったんですね 」
                     ( 「 光明の生活者 」 50、51ページより )

私が世界平和の祈りを真剣に唱えるようになったのは、
体調がとても悪かった時期に〝 自分が救われたい、救ってほしい 〟
という想いで始めたのがきっかけでした。
それがいつの間にか、
「 世界の平和のためにお祈りしよう、
  この世にいる限り、いいえ、あの世へ行ってからも、
  世界人類の平和のために祈り続けよう 」
と思うようになっていったのです。

……なんて、偉そうなことを言っておりますが、
ホントは今でも、ちょっと体調が悪くなると〝 良くなりたい 〟という想いで、
いつもより一生懸命唱えている私がいます。 ( 笑 )

〝 だって、どんな薬よりも一番よく効く最高の特効薬なんだもの…… 〟
……ボソボソ言っている私を、
守護霊守護神様はニコニコ笑いながらやさしく包んで下さり、
世界平和の祈りを一緒にお祈りして下さっています。

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうぞこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和

「 世界人類が平和でありますように 」という名前の神様

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 魂が大きく開く時 」
   206ページ2行目から209ページまで >

『  皆さんも一生懸命平和の祈りをしているわけ。

そうすると十(じゅう)怪我するものでも一だけで済む。
神様のほうでしてくれるわけです。

そりゃそうでしょ。

皆さんの想いが神様の中に世界平和の祈りで入っているんだから、
大光明によって業が消されているんだから、
必ず業は少なくなっているに決まっているんですよ。

神様のみ心の中に入っていて、
世界平和の祈りを祈っていて、
祈らない前より悪いなんていうことがあるわけがない。

悪いのだったら、あらゆる信仰は全部駄目になります。

世界人類が平和でありますように、と祈っていることは、
大神様のみ心の中にすっぽり入っていることです。

すっぽり入っていることだから、
世界平和の祈りを祈っていて、
祈らない前より悪いなんてことは絶対にないのです。

もし祈っていながら病気が現われたり、
不幸が現われたりするならば、

それは以前に溜まっているものが、
そのまま現われるならもっと強く現われるのが、
大光明に洗われて薄くなって、
チョコチョコと小刻みに現われて消えてゆく姿なんですよ。

それを間違えてはいけません。

理論的にも考えてごらんなさい。

世界人類が平和でありますように、という愛の心で思っていて、
自分が悪いはずがあるかというのです。

この世は想いの世界です。

正しい想いを出していて、
愛の想いを出していて、
それが悪く帰ってくることはありません。

それでもなお悪く帰ってくるように現われてくることは、
前に溜まっている業が軽く軽く済んで、
消えてゆく姿なのです。

それを心の中から想わなければ駄目ですよ。

祈っているけれど悪いことばかりある、というのじゃありません。

祈っているからこそ、少なく済んでいるんです。

世界人類が平和でありますように、
という広い高い立派な祈り言をしながら、
悪いことが増えるわけが絶対にない。

減るに決まっている。
それをしっかりと心の中に入れておくことです。

新しい宗教などでは、
祈りというのは、自分が只救われたいような祈りが多いんです。

ところが私達の祈りは、
勿論自分が救われたいと思わない人はないんですよ。
誰だって自分が救われたいに決まっている。

しかしその自分の救われを、
小さな枝葉の現象利益だけの救われじゃなくて、
現象利益も含めた本心の開発、
本当の救われまでもってゆく祈りなのです。

それと同時に、
世界人類を救う、人類に光を送る祈りが、
世界人類が平和でありますように、という祈りなんですよ。

そこにはなんの我欲もなければ自我もないんです。
自我欲望がみんな消えてゆく姿になってしまうわけです。
わかりますね。

世界人類が平和でありますように、
という想いの中に悪いことがあるわけがない。

家内安全、商売繁昌じゃ自分のことだけだろうけれども、
世界平和の祈りは世界人類の幸福と平和を祈ることなのだから、
悪いわけがない。

これ以上のいい教えがどこにありますか。

世界人類が平和でありますように、
と思うことほど高い立派な想い方はないのだよ、
と大神様はここに来て言っています。

世界人類が平和でありますように、という言葉につけ加えて、
私共の天命が完うされますように、
どうか神様のお役に立ちますように、と祈ることです。

天命が完うするということは、
自分が貧乏ばかりしていたら天命が完う出来ないだろうし、
病気ばかりしていたら天命が完う出来ないかも知れないから、
天命が完うするために必要なように、神様がしてくれるわけです。

だから病気を治して下さいというよりも、
天命が完うされますように、と言ったほうが病気が早く治るんです。

ということは、
なんでもかんでも、神様のみ心の中に入ってしまえばよいのです。

神様のみ心の中に入るのでも、
何々の神と呼んだのでは、
神様にもいろんな名前がついていますから、

うちの神様のほうが力がある、
いやうちのほうが……と神様喧嘩になります。

それじゃいけないから、私は目的を持ってきたわけです。

世界人類が平和でありますように、
という目的を神様のみ心と一つにしてしまったのですよ。

世界人類が平和でありますように、というのは、
もう神様の名前と同じです。

神様の目的だからね。

神様の目的と人間の目的とを一つに結んだのが、世界平和の祈りなのです。 』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

今回のお話の中で、五井先生は
「 世界平和の祈りをしていると、神様が、
  十けがするところを一で済ませて下さる 」
ということをおっしゃっていますが、
私は嫌な事やしんどい事があった時、心の中で守護の神霊に
「 過去世の業を軽い形にして消して下さっているのですね、
  守護霊様守護神様ありがとうございます…… 」
と語りかけながら、このことを忘れないようにしています。

世界平和の祈りを祈るようになってからも、
嫌な事、しんどい事……色々ありました。
でも振り返ってみると、その時嫌だった事が、
後々になって、全てプラスになっていることが分かり、
〝 あの時、ああいう事があってホントに良かった〝
と、心から思えます。
例えば対人関係などでも、
守護霊守護神様が神計って、とても良いタイミングで
私に嫌な想いをさせて( 過去世の因縁を消して )、
同時に私を一番良い方向へ導いて下さっていたのだ、
ということが、しばらく経つとよく分かるのです。
守護霊守護神様のなさることは完ぺきです。

五井先生は他の講話集の中で、このようなお話もして下さっています。

「 自分は神様につながっている、
  守護霊守護神に感謝している、世界平和の祈りをしている、
  だから自分が再び立ち上がれないようなひどい痛み方はしないんだ、
  というように断固として思うのです。
  それは私が保証しますよ。
  再び立ち上がれないような、そういうひどい目には神様は会わせない。
  神様!って思っていない人は別ですよ。
  だけど神様を本当に思って、世界平和の祈りをしている人は、
  もし不幸があった場合は、
  たとえば事業がつぶれたとしても、
  同時に、もっと素晴らしく発展するような新しい事業が出てくる。
  そういうものなんです 」
                  ( 「 天命を信じて人事を尽くせ 」 182ページより )

日々、五井先生の教えを行じていらっしゃる皆様は、
守護霊守護神様の中にすっぽり入って、さらに、
「 世界人類が平和でありますように 」という名前の、とてつもない
大きな神様の中にすっぽり入っていらっしゃるのですから、
たとえ何があろうと、
絶対に大丈夫ですよ 

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうぞこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和

新 年

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます 




< 五井昌久著 「 自然 大生命の絵巻 3 」
          62ページから66ページまで >

『  天地の調和 

天地(あめつち)の息吹(いぶ)き調(ととの)ふ新年(あらとし)とならせ給へよ平和の祈り

暫くの間、私たちの心を和ませていてくれた
山茶花(さざんか)の遅咲きの花ももう散って、
寒椿の花が咲きはじめている。

狭庭(さにわ)は狭庭なりに、広庭は広庭のように
木々も草生(くさお)も花々も、
天地の息吹きの調和の姿を木々と繁らせ、
花々と咲き競うのである。

天地の調和なくして、この自然の姿はないのである。

人間もまた自然の一つの現れであって、
天地の調和なくしては、生存し得ないものなのであるのに、

人間はその真理を忘れて、
自ら天地の調和を乱しつづけているのである。

原爆実験などその調和を乱すこと甚しいものであるが、

人間一人一人の不平不満や、争いの想いなど、
眼に見えぬことながら、
天地の和の波動を乱しつづけているのであって、
天変地変の起らんとするその根幹となっているのである。

神々の慈愛は、
天となり、地となり、太陽となり、空気となり、水となって、
人類をはじめあらゆる生物を発育生成させようとしている。

太陽にしろ、空気にしろ、水にしろ、
どれ一つなくても、人間は生きられないのである。

人間はそうした天地の大恩を忘れ果てている。

そして、言いたいほうだいのことをいい、
やりたいほうだいのことをやっている。

太陽の有難さを思ったら、空気の有難さを思ったら、
人間は何一つ不平不満など言えないものなのである。

人間は先ず天地への感謝から
一日の行事をはじめなければいけない。

この新年のはじめにも、
先ず天地への感謝の柏手を叩き、平和の祈りをするのである。

天地の息吹きが整うことと、
人類大調和の生活とは全く一つのものなのである。

人間一人一人の平和の祈りが、
戦争を防ぎ、天変地変を防ぎ得る唯一無二のことなのである。

元日からその決意を新たにして、
この一年の天地の調和を、
私たちの祈りによって成就させてゆかねばならない。

今年も明るく生きよう 

拙(つた)なきも達筆もみな愛(いとお)しや我れを慕ひて書ける賀状は 

除夜の鐘が鳴り終った暫くの静けさは、
これから開けてゆく、
新しい年の運命をはらんでいる空(くう)の境地のような感じである。

色即是空(しきそくぜくう)として、
現象の物事事柄を、すべて空の中に融けこませ、

空即是色(くうそくぜしき)として、
すべてを輝やく実体の現れとしよう、という神々の理念を、
人類がしっかりと心に把握した時、
地球人類の夜明がくるのだが、
昨年までは、まだその時期に至っていない。

私たちの世界平和の祈りは、
年々歳々世界中に広まってはきているが、
まだまだこれからというところである。

毎年私に来る年賀状は山のように積まれて、私の前にくる。

私は一枚づつ祈りつつ目を通しているが、
各人各様にそれぞれの真心がにじみ出ていて、なんとも愛しいものである。

あまりにその数が多いので、
その一人一人に対して、返事を書くことは到底出来ないので、
その点は勘弁していただいている。

こういう私の同志たちが、
日夜にわたり、祈りつづけている世界平和の祈りは、
その平和のひびきを、
つねに地球全体に
否(いや)宇宙全体にひびかせつづけているのである。

この世界平和の祈りは、
神界と人類との結びつきの祈りで、
この祈りを祈る人の身心は、光明に輝いてゆくのである。

これは多くの霊能的な人にみえるところであって、事実なのである。

そういうことも、やがて科学的に証明される日も必ずくるのである。

今年も、世界中の様々な変化や出来事に把われず、
たゆみなく平和の祈りをしつづけ、
光明波動を全世界にひびかせつづけてゆくのが、
私たちの使命なので、

皆さんも、世界の暗い動きや、悪い出来事に想いを把われず、
つねに心を明るく、神の愛を信じて、
平和の祈り一辺倒で生活していっていただきたい。

そのうち大調和の科学が生まれて、宗教精神とマッチして、
急速に地球の救われが成就してゆくことになるのである。

今年も南天の実が、可愛い真赤な顔をして我が家の庭で正月を迎えている。

あんな小さな実ですらも、この寒空に命生き生きと生きているのをみると、
神様はすべてを愛していらっしゃるのだなあ、
と思わず私も神様の心になって、南天の実を心から愛するのである。

まして同志の皆さんを愛するや切というところである。 』



< 感謝の言葉 >

皆様、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

「 ぶりらんて 」をいつもご覧下さっている皆様は、おそらく
今生ではまだ一度もお会いしたことのない方がほとんどだと思いますが、
過去世ではきっと親しいご縁のあった方々なのだと思います。
こうしてブログを書いている時など、
皆様の守護霊守護神様がたくさんの光を私の所へ送って下さり、
光の応援をして下さっていることがよく分かります。
私は霊能者ではないので実際に光が見えるわけではないのですが、
そのように感じて〝 だからブログを書くことができるのだなあ 〟
と、感謝しております。
いつも「 ぶりらんて 」をご覧下さっているお一人お一人に、
あらためまして、深く深く心からお礼申し上げます。

さて、今回は五井先生の随想集の中から、
お正月にちなんだものを二つ載せさせて頂きました。
これらを読んでいると、五井先生( 1916~1980 )が
今、目の前で私達にお話しして下さっているような気がしてきます。
五井先生は当時、ある宗教団体を主宰しておられたのですが、
お話の中で〝 同志の皆さん 〟とおっしゃっているのは、
その会の方たちのことだけを言っているのではなく、もちろん
世界平和の祈りを祈っている私達全員のことです。

私は心の中で五井先生に年賀状を書きました。

「 五井先生、今年もブログを見て下さっている皆様と共に
  日々五井先生の教えを行じてまいりますので、
  どうぞ私達の天命が完うされますよう、
  よろしくお願い申し上げます 」 と。

五井先生は、光のハガキで私の所へ返事を届けて下さいました。
そのハガキには、
愛に満ち溢れた光輝く字で、
「 わかったよ 」
と、力強く書かれてあります。

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうぞこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和

顕在意識も潜在意識も光の水で洗って頂きましょう

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 運命を恐れるな 」
   91ページから92ページ8行目まで>

『  今現実に現われている顕在意識と、
過去世から今日までの心の中に潜んでいる潜在意識とを、
すべて消えてゆく姿として、心の中から消し去ってしまい、

潜在意識のもっとずっと奥にある、神意識、
人間の本心の望んでいることが、
この世の現実の生活として、真直ぐ妨げなく現われるようにと、
祈り心で生活することを実行するとよいのであります。

その方法を私は、
消えてゆく姿で、世界平和の祈りというような簡単な方法で、
しかも容易に神との一体化ができる教えにしたのであります。

この世においても、あの世においても、
人間として立派な善い生き方をするためには、
本心を輝かして、神のみ心の通りに生きなければなりません。

それにはどうしても潜在意識に潜んでいる、
利己主義の想い、
争いの想い、
妬みや怒りや、
反逆の想い等の
神の愛のみ心に反する想念を消し去っておかなければいけません。

そうしませんと、
顕在意識で、人を愛そうと思い、人と争うまいと思っても、

その表面意識を押しのけて、
潜在意識から、
憎しみや怒りや妬みや争いの想いが浮びあがってきまして、
自己の表面の意識の通りに自己の生活が成り立ってゆきません。

そこで、いつまでも自己の安心立命のできぬ日々が
続いてしまうのであります。

私はこういうことがわかっておりますので、
顕在意識も潜在意識もともに消えてゆく姿として、
すべてを世界平和の祈りのような、人類愛の祈りの中に、
守護の神霊への感謝の想いをこめて
投入してしまうことを教えているのであります。

そういたしますと、
人間本来の生命の働きが大宇宙の運行の一環の流れとして、
自由自在に働くことができるのです。

これを釈迦牟尼世尊は、空(くう)という言葉で説き、
イエスは神への全託と説き、
老子は無為にして為せと説いてきたのであります。

神道でいう神ながらの道というのもそういう原理なのです。 』


< 五井昌久著 「 運命を恐れるな 」
   140ページ5行目から142ページ8行目まで >

『 既成宗教のように、
あまり真正面に神仏との一体化のための修業ですと、
大衆には重荷になって、
とても修業についてゆくことはむずかしくなります。

空になるための坐禅にしても、
生命(いのち)を捨てて生命を得る、と言い、
下衣をとるものには上衣をも与えよ、
というキリスト教の教えにしても、
なかなか実行できにくい教えです。

といって、こういう教えはやはり真理でありまして、

人間が普通常識とされている、
この世の物質生活に把われている限りは、
とても真の救われの道に入ることはできません。

やはり物質に把われる想いや、
現世の利害打算や、
感情想念に把われる想いを、
一度空にしないと駄目なわけです。

空になることも、
生命を捨てざれば生命を得ず、
ということでも同じことでありまして、

神の子本来の姿を包んでいる
あらゆる把われを捨て去ることなのであります。

ですから、現世利益を主としての宗教入りが、
そのままの心の状態では、
とても真の救われに入ることのできないのは、理の当然であります。

汚れた水をそのままにして置いて、
器だけをいくら磨いたところで、
中の水が奇麗になりようがありません。

汚れた水は一度捨てて、
改めて新しい水を入れることによって、

内から見ても、外から見ても、
その水は奇麗に見えるわけです。

その理が空になれ、ということであり、
生命を捨てざれば云々ということになるわけなのです。

私はそのところを、
そう極端に、
一度にそういう浄まった状態を現わすことは、
この地球世界の汚れきった波動圏の中では無理があるので、

この空の代りに、
生命を捨てる代りに、
消えてゆく姿、という言葉を使ったのであります。

この世に現われてくる、貧乏も不幸も災難も、
あらゆる出来事事柄は、
みんな過去世の因縁の消えてゆく姿である。

それはみな、本心、本体、
つまり神の子人間を包んでいる業の波が、
内なる神(守護の神霊を含む)の光明によって、
消え去ろうとしてこの世的に現われてきた姿なのだから、

ひたすらに守護の神霊の加護を念じて、
消えてゆくに従って、
本心が開かれてゆくのだ、
開運してゆくのだ、と、

消えてゆく姿の出来事事柄を、
世界人類が平和でありますように、
という人類全部の幸せを願う、
広い大きな愛の祈り言の中に投げ入れてしまいなさい。

それを常時、
朝起きる時、
三度の食事の時、
歩いている時、
乗物の中、
寝床の中、
どんな時にでも、心の中で唱えていなさい、
と教えているわけです。

そう致しますと、
世界平和の祈りは、
そのままが神のみ心でもあり、
神の子人間の心でもありますから、

神の光明が心の中に充満してゆき、
業が急速に消されてゆき、
汚れた水がいつの間にか奇麗な水に入れ代ってゆくのであります。

これを続けてゆくことによって、
一度に空になれなくとも、
次第に空と同じ状態になり、

般若心経の色即是空、空即是色の空即是色と同じ状態になり、
神の光明が、祈っている人の生活状態に現われてくるのであります。

こういう方法を取れば、
現世利益を願いながらでも、
祈りそのままが、天への道につながっていて、
いつの間にか、本心が開発され、真人の姿が現われてくるのです。 』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

今回の文章の中で五井先生は、
「 汚れた水がいつの間にか奇麗な水に入れ代ってゆくのであります 」
と、水にたとえて説明して下さっていますが、
同じようなお話が講話集の中にもありましたのでご紹介します。

「 どんな汚い水があっても、どんどん奇麗な水を入れていれば、
  汚い水と奇麗な水と一緒に溢れて、知らないうちに奇麗な水になります。
  それと同じこと。
  だからどんどん新しい光の水を入れなきゃならない。
  光の水はどこから来るかというと、
  世界平和の祈りの神様の救世の大光明の中から来るわけですよ。
  だから救世の大光明の中に、どんどん
  自分のいやな想いも、よい想いもみんな入れていけば、
  知らないうちに潜在意識が奇麗に光で洗われていく。
  こんなやさしい方法はないですよ。そうすると、
  今までかんしゃく持ちだったのが見違えるように穏やかになる。
  今まで臆病だった人が見違えるように勇気が出てくる、
  というようにまるで人柄が変わってくるんですよ。  ≪ 中略 ≫
  だから山に籠って行をしなくたって、いつも祈りをしていれば、
  いつの間にか自分は変わってくる。
  世界の様相も変わっていく、ということになるんです。 」
               ( 「 我(われ)を極める 」 228、229ページより )

皆様、五井先生は
「 見違えるように変わる 」 と、おっしゃっていますよ。
「 まるで人柄が変わってくる 」 と。
私はここを何度も読みながら、
〝 ああ、やっぱり五井先生の教えを続けている人達は皆、
   見違えるようにすばらしく変わっていくんだなあ― 〟
と、思わず顔がほころびました。

さらに、
「 いつも祈りをしていれば、いつの間にか自分は変わってくる
  世界の様相も変わっていく、ということになるんです 」
と、お話しされています。
世界平和の祈りを祈れば自分だけが変わるのではなく、
世界も変わっていく、ということですね。
なぜなら、それは神界との約束事だからです。

神界から、救世の神々様の美しい愛の声が聞こえてきそうです ―

【 世界平和の祈りを祈りなさい
  そうすれば必ず
  あなたも救われ、世界も救われてゆきます
  約束しましょう
  約束しましょう …… 】


最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうぞ私達の天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和
プロフィール

たかひろ

Author:たかひろ
昭和31年生まれ
職業 税理士
現在 兵庫県芦屋市在住
妻と二人暮らし
趣味 音楽鑑賞

    妻
昭和38年生まれ
専業主婦
趣味 ピアノ

≪このブログは妻との合作です≫

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