法則の神、救済の神

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 空即是色 」
   17ページ11行目から22ページ11行目まで より抜粋 >

『  何故、お釈迦様は神様ということを説かなかったか?

お釈迦様の頃には、迷信邪教がたくさんありまして、
蛇などの爬虫類(はちゅうるい)とか他の動物とかを神様にして、
神様神様と拝んだような邪教がたくさんありまして、
それはインドばかりでなく、どこにもあったわけです。

そこで念力というものが出たりしたんです。

そこでお釈迦様は、
いっぺん神様というのをなくしてしまって、
絶対者、要するに造物主という形も全部なくして、
自分の中で自分の心で悟る方法を教えたのです。

自分自身が仏なんだ、
神とは言わないけれど、要するに、神から来ている命なんだ。

だから命を覆っている業というもの
ー 自分勝手な想い、自我欲望 ーを取りさえすれば、
本当の自分が出てくるんだ、と教えて、
他からくる神の力とかいうものを説かなかったわけです。

だけどお釈迦様は全部知っていた。

毘沙門(びしゃもん)、帝釈天(たいしゃくてん)が守っている、とか、
守護神のことはすべてお釈迦様は説いていますね。

守護神がみな守っている、ということを随分説いている。

お釈迦様が何故絶対神を説かなかったか?

私から言わせれば、
絶対神を説いてもなんにもならないからなのですよ。

どういうことかというと、
要するに法則の神、絶対者を説いても、
その絶対者そのものが、そのまま法則にのって働いているんだから、
絶対者さん!て拝んだってどうしたって、
実はそんなもの関係がないわけなのですよ。

本当に人間を助けてくれるのは守護神です。

守護神がついて、人間の運命を変えてくれるわけなのです。

唯一絶対者が変えてくれるわけではない。

唯一絶対者の大生命というのは、
宇宙始まって以来、地球界が出来て以来、
決まった定まった通りに動いているわけなのです。

一分一厘もまけがないのです。

いいですか。
宇宙の運行というのは、一分一厘まけがないのです。

ズーッと決まったまま動いているのです。
それをまけてごらんなさい。

或る時、月と太陽が相談した。
太陽が神様に 「 神様、私は朝出るのがいやだから、夜にして下さい 」
月が 「 私はもう夜出るのはいやだから、たまには朝にして下さい 」と頼んで、
月と太陽が代わって出たなんて話は聞いたことがないでしょう。

大神様というのは、全然変わらない。
法則のままで動いてゆくわけなんですよ。

神様の法則のまま、神様のみ心のままに動いていれば、
この人類は今のような不調和な状態、
戦争が起こりそうな状態、
天変地異が起こりそうな状態に、
この世界は絶対にならなかったわけです。

ところが微妙な波動の神様のみ心の中から生まれた人間は、
はじめは微妙な実に微妙な波動で、
こんな体ではなくて、
本当は微妙な自由自在な体を持った人間なのだけれど、

それが肉体界という、粗い波の中で地球界で生活しはじめて、
それが長い間慣れてしまうと、

粗い波の地球のこういう物質の世界が本当の世界だと、
だんだん習慣で思ってしまったりして、

自分でもってだんだん自己限定をして、
自分でもって、これっきり出来ないんだ、というふうにしてしまって、
今の地球人間が出来てしまったのですからね。

この地球世界では、
自分と他人とは全然関係のない、
つながりのない赤の他人なんですね。

ところが元を正せば、
命の世界では一つにつながった、
命の分かれなんです。

誰も彼も兄弟姉妹。

物質の肉体が離れてしまったから、
利害関係が対立しまして、
他人も自分も、自分のことを守ることで精一杯、
自分のことだけ守ることを考えてしまった。

そのように慣れてしまって、
今の、この戦争が起こりそうな世界が出来てきているわけです。

それを直さない限りは世界が平和にならない。

そこを直そうとして働いているのは、
宇宙神、絶対者、唯一神(ゆいいつしん)ではなくて、
唯一神から分かれて、
そういう役目を持たされた守護神なのです。

いつもいうけれど、
一人一人に祖先の悟った霊の守護霊がいるし、

絶対者の分かれの光明の守護神がついていて、
一人の人間を一生懸命守り、
それから大勢をも守っているわけです。

各守護神、守護霊が一つになって、
世界人類を守ろうとしているのが救世(きゅうせ)の大光明。

いわゆるみんなが集まって人類を救済しようという神様の愛念が、
守護神の団体になって、今働いているわけなのです。

だから大神様そのものが働いているという意味ではない。

大神様は片方としては大生命として、
小生命、いろんな生命を与えてみんなを生かしている。

決まった法則のままに生かしている。

神様がそのまま現われてくるまでは不完全ですね。

その不完全を補うために、
守護霊守護神というものが派遣されていて、

手が足りないな、手助けをしてやろう、
荷物が重いから持てないな、持ってやろう、
として助けてくれているのです。

それが守護霊守護神なのですね。 』



< 感謝の言葉 >


皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

五井先生は、ご自身の体験から、はっきりと、
救済の神である守護神守護霊のことを教えて下さっています。
他の講話集の中では、このようなお話もなさっています。

「 私は、大神様大生命としての神様、法則の神と、
  守護神という救いの神と、はっきり分けた。
  それと同時に、業想念と本心をはっきり分けた。≪ 中略 ≫
  私は守護神によっていろいろ修行させられて、
  それでこうなったわけでしょう。
  自分の体験ではっきりわかっていますから、
 〝 うしろに守護神がついていますよ、守護霊がついていますよ、
    それであなたの業想念を消してくれているんだから、
    あなたは日常生活はそのまま、
    守護霊さん守護神さんありがとうございます、
    と神様の方に想いを向けて、一生懸命生きてさえいれば、
    病気が出ようと、貧乏が出ようと、何が出ようと、それは
    消えてゆく姿として、守護霊守護神が消していてくれるのだから、
    なんでも構わないから、想いを神様神様神様、
    守護霊さん守護神さんありがとうございます、
    と神様に向けていればいい 〟
  というように教えているんです。わかりやすいでしょう。≪ 中略 ≫
  守護霊さん守護神さんありがとうございます、というのは
  光の想いなんだから、業想念を突破してゆく。
  そうするとどんどん光が入ってくる。
  入ってくると、知らない間に明るくなってくる。
  心が豊かになってくる。
  なんだか、この世が愉快になってくる 」
                   ( 「 神様にまかせきる 」 115ページから117ページより )

〝 この世が愉快になってくる 〟と話されていますが、本当にそんな感じです。
守護霊守護神は、真実、自分自身でもあるのですから、
ピタッと一つになり、「 守護霊様守護神様ありがとうございます
どうぞみ心のままに 」と思いながら日常生活を送っていると、
なんだかこの世が愉快になってきます。

今このブログをご覧下さっている皆様の中に、もしかしたら
現在、何か悩み事があったり、苦しい事があったりして、
辛い想いをしておられる方がいらっしゃるかもしれませんが、
守護霊守護神という、救いの神は、
必ず、あなた様を助けて下さいますよ。
「 守護霊様守護神様ありがとうございます 」と言えなかったら、
「 守護霊様助けて下さい!」でも、
「 守護霊様!守護霊様!守護霊様!…… 」でも、
とにかく心の中でひたすら呼び続けてみて下さい。

必ず、守護霊守護神様は助けて下さいます。
守護霊守護神様は必ず、あなた様を救って下さいますよ。
必ず。

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうかこのブログを見て下さる全ての方の天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和

病気の時は、魂の進歩が急速になされますよ

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 本もの贋(にせ)もの 」 >
   93ページ4行目から94ページ5行目まで

『  私の経験として皆さんに申し上げたいのは、

病気に限らず、すべての物事の苦境に立った時には、
決して不安な想いを起してはいけないし、
あわててはいけないということです。

先生そうおっしゃるけれど、そんなことできません、
という人が多数いらっしゃると思います。

ごもっともだし、無理もないことです。

しかし、そこで日頃からの祈り心が必要になってくるのです。

それこそ、神様と呼び続けるのです。

守護霊様、守護神様ありがとうございます、
と感謝の心で、守護の神霊と一体になる祈りをし続けることです。

そういう時こそ、想念が統一しやすく、魂の進歩が早まるのです。

≪ 中略 ≫

病気という症状に現われたら、
ああこれで悪いものが消えてゆくのだ、これで良くなるのだ、
と想って祈り続けることが必要なのです。

どこが悪い、ここが悪いということは、
お医者さんなり、治療師なりにお任せしておいて、
自分は、消えてゆく姿で世界平和の祈りをしていればよいのであります。 』



< 五井昌久著 「 本もの贋(にせ)もの 」
   96ページ13行目から100ページまで >

『  病気の症状というものは、

神の愛の調和のみ心を外れた想念波動が、
幽体から肉体に毒素となって集まり、

その毒素が、人間本来の完全性を維持するために働いている、
神の力の治癒力によって、表面に表われて、
消えてゆこうとしている状態のことなので、

消えてゆくものを素直に消させてしまえばよいわけなのです。

その間の苦痛の想いは、
ひたすらなる祈りによって、
神のみ心の光明波動に同化させてゆけば、
この苦痛も軽減されてゆくのであります。

要するに病気になったら、
不安の想いを起したり、あわてふためいて、
ますます不調和な想いを多くしたり、
自分や人を責め裁くような想いになったりせずに、

医者にかかりたかったら医者、
治療師にかかりたかったら治療師に体のことは任せて、

ひたすらなる祈り心で、
神との一体化を行じてゆくことが必要なのです。

病気の時程、魂の進歩が急速になされることはありません。

健康の時にはみつめもしなかった、
人間の心の奥の世界をみつめる絶好のチャンスが、
病気の状態の時なのです。

只単に病気を忌みきらい、病気を恐れることはありません。

守護の神霊方が、その人の魂の進化のために、
今病気の症状を現わしたほうがよいと思われれば、
病気の症状が現われてくるでしょうし、

貧乏の経験を積んだほうがよいと思われれば、
貧乏の状態が現われてくるでしょう。

人間は常に、何事が起きても、
不安動揺の想いを起さぬよう、日頃から心がけなければいけません。

私などでも三十はじめに、
神にすべてを捧げつくして、
自分というものを、すっかり捨てきった状態になり、
霊覚者としてその後の生活が始まったのですが、

その間種々様々なこの世の体験と霊的体験を続けてまいりまして、
普通の人より、
幾分なりとも不安動揺の少ない人間になってきていると思っていたのです。

しかし、重い病気の症状というものは、
成人以来一度も経験していなかったので、
病人に対する同情心というものに、
いささか欠けていたのではないか、と病後の今にして思うのです。

自分が、普通でいえば、
生死の境のような重い病気の症状を長い間続けていますと、

病人に対する同情心というようなものが、非常に深まって、
いたずらに口先だけで、病気になんか把われなさるな、
などとは言えないものだ、と思ったのです。

といって、私が病気の重い症状の中で、
不安になったり、神に不信を抱いたりしたか、というと、

一度も一瞬たりとも、
不安の想いも不信の想いも抱いたことも、湧き上がったこともありません。

私の心は健康の時と全く同じように明るく、
屈託のないユーモアも充分に言える状態でいたのです。

これは重病のような状態になって、
改めて自分を確かめさせられたようなもので、
更に自分の心に信頼を置くことができたのです。

私の心の状態は、常にどういう風にあるかと申しますと、
如何なる時にも、
肉体に附属する自己というものを、
他人と同じように、客観的に見つめているのであります。

その日その時々の想念行為の出来不出来を、
実に客観的に見つめているのです。

天の神なる我と、肉体に在る自分と、
そしてその中間に天地を見つめている自分という三者がうまくからみ合って、
一人の我になっている感じなのであります。

≪ 中略 ≫

人間は誰でも、確かに天地を貫いて生きているのです。

天には神そのものの我が厳然として光り輝いているのです。

その光明をどれだけ、まともに素直に受けきって生きてゆくかが、
地なる自分の勉強なのです。

≪ 中略 ≫

皆さん、今病気の症状の現われている方は勿論、
今は健康そのものでいられる方も、
どうぞ私の体験のように、
そういう機会をのがさず、
自己の魂の進化を促進させて下さい。  』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

今回ご紹介した文章の中に、
「 病気や物事の苦境に立った時、不安動揺の想いを起こさないように 」
という事が書かれてありますが、これは、
そういう想いをそのままにしておかないように、という意味で、
そういう想いが出てきたら、その想いを持ったままでもいいから
神様の中へ、即ち守護霊守護神の中、世界平和の祈りの中へ
入ってしまえば大丈夫ですよ、という事です。
ある講話集の中で、五井先生はこのようなお話をなさっています。

「 みなさんもいつも自分の想いを守護霊守護神の中に入れておけば、
  病気をしようと、風邪をひこうと、貧乏になろうと
  それはあまり問題にならない。みんな消えてゆく姿です。
  どんどん何でも消えてゆきます。全て消えざるものはありません 」
                      ( 「 素直な心 」 95、96ページより )

「 どんなに病気をしようとも、それに引っかかることはありませんよ。
  それは過去世の因縁が消えてゆく姿なのです。
  溜っているものが現れてきて、病気のようになって消えてゆくんです。 ≪ 中略 ≫
  ああ守護霊さんありがとう、守護神さんありがとう、
  これによって私の体がもっと良くなるのでございます、
  と思うのです 」
                      ( 「 素直な心 」 136,137ページより )

私は体調が悪い時、不安な想いなど色々なマイナスの想いが出てきます。
でも、それらの想いも全て消えてゆく姿なので、
「 守護霊様守護神様、どうか全部消して下さい 」という気持ちで、
守護霊守護神様にしがみついて世界平和の祈りを祈っています。
そうしていると、心の奥の方からだんだん安心感が湧いてきます。

また医者にかかる時は、そのお医者さんの守護霊守護神様を意識して、
「 〇〇先生の守護霊様守護神様ありがとうございます
  どうぞ○○先生の天命が完うされますように
  私達の天命が完うされますように
  世界人類が平和でありますように ― 」
というふうにお祈りしています。
いつでもどこでもお祈りができるという事は、本当にありがたいです。

ふと、五井先生の教えをまだ知らなかった頃の事を思い出しました。
自分自身の病気の時もそうですが、それよりも、
身内が重い病気にかかった時、動揺してオロオロしてしまい、
ただ心配するばかりでした。悲しくなるばかりでした。

今、改めて五井先生の教えがどれほどありがたいものであるか、
心の底からしみじみと感じております。

そして、あの世へ行った身内や親しい人たちも、
私が日々世界平和の祈りをさせて頂いているので、
きっとどんどん高い所へ昇って行って、
生命を光り輝かせていることと思います。

〝 五井先生ありがとうございます…… 〟という気持ちで一杯です。

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうぞこのブログを見て下さる全ての方の天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和
 

100パーセント守護霊守護神を思いましょう

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 不動の心 」
   42ページ10行目から52ページ より抜粋 >

『  神様、神様、神様といつも思うのです。

神様だけではわからないでしょ。

そこで、祖先の亡くなった人が悟って守護霊として守っている、
そして守護神を通して神様につなげてくれるのだから、
守護霊様ありがとうございます、守護神様ありがとうございます、
といつも思いなさいと言うのです。

神様を100パーセント思うのです。

100パーセント思えば、自分は神様の分霊なのだから、
その分霊の光がそのまま現われて、
自分の世界が完全になるに決っているんですよ。

それを昔から聖者がみな叫んでいる。

そうなんだ、そうなんだ、
自分の中に仏様がいるんだよ、
悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)なんだよ、
ことごとくみな神様仏様なんだよって、
お釈迦様は言っている。

キリストは、汝の内に神は在るのだ、
神の国は汝の内にあるのだ、と言っている。

私はそれではまだわからないから、
汝の内に神様が分霊としてあるのだ、
分生命としてここに神様が在るのだ。

後ろには守護霊守護神として守っているのだから、
内も外も神様だらけなのだ。

それがわからない想いは業の想いなのだから、
それは消えてゆく姿なのだよ。

神様なんかあるのかなあ、
という想いは業で、消えてゆく姿なのだ。

ああこんなに苦しいのに助けてくれるのかなあ、
ああそう思う想いが業の消えてゆく姿なのだ、
すべて神様を否定する想いは業想念なのですよ。

神様を否定したら、消えてゆく姿と思うのです。

消えてゆく姿だけで足りないから、
守護霊様守護神様ありがとうございます、と言うのです。

それでも足りないから世界平和の祈りをやるのです。

なんでもかんでも、
自分の想いをすべて神様の中に投げ出すのですよ。

全部投げ出して、消えてゆく姿だけやって、
神様ありがとうございます、神様ありがとうございます、
と思う想いだけがあればよいのです。

親鸞さんは前生の女性に対する因縁があって、
親鸞さんと生まれかわって僧侶として初めて結婚もしたし、
自分にそぐわないような不肖な子が出来た。

しかし親鸞はそれをみな業の消えてゆく姿と思ったのですよ。

みな過去世の私の業の消えてゆく姿なのだ。
しかしそれは自分で消すんじゃないのだ、
自分で消すことの出来るものじゃないのだ。
阿弥陀様が消してくれるのだ。

だから南無阿弥陀仏、阿弥陀様ありがとうございます、
と言って、阿弥陀様の中に全部入っちゃった。

親鸞は、貧しいのもそれもいい、病気するのもそれもいい、
何もすべてそれは自分のするところでなくて、
自分の業が消えてゆくだけなのだ。

消してくれるのは誰かというと、阿弥陀様なのだ、
阿弥陀様が全部消してくれる。

丈夫は丈夫で結構、
病気をしたとしたら、
阿弥陀様と一緒にゆくのだから、病人は明るくなっちゃう。

流罪になって越後へ行きますね。

流罪になるから幸せなのだ、
京都にだけいれば京都だけしか浄まらない、
流罪になれば流された所が浄まる、

阿弥陀様の光がそこにもみなぎりわたるのだ、
という想いで行ったんですよ。

そしたら地頭はじめみな弟子になって、
越後が光明化されましたね。

阿弥陀様のおはからいのままに、
神様のおはからいのままに、
素直に動いていったのです。

自然法爾(じねんほうに)なのです。

そうすると行く先行く先、全部光明化されたのです。

しかも亡くなった後、親鸞というと、ああ偉い人だ。

親鸞を思うだけで、親鸞の本を読むだけで、
なんだか心が清まってくる。

それは法然も同じですよ。

良寛さんも同じです。

聖者というものは、行ないをしたことが偉いのです。

いくらうまい言葉を言ったって駄目です。

言葉だけではない、行ないをした。

自分の前に不幸の姿が現われてきても、
それは過去世の因縁が消えてゆく姿なのだ。

どんなに自分の中に怒りの心が出て来ても、
迷いの心が出ても、それは消えてゆく姿だ。

どんなに自分に仇をする人があっても、それは消えてゆく姿だ。

みな消えてゆく姿で、
あるものは仏様の慈悲だけが光り輝いているのだ。

そういうのを本当にやったんですよ。
本当に実行したから偉いのです。

その境地に一歩でも二歩でも近づいてゆくことです。

初めからそうなりません。
過去世の業があるから、いっぺんになるわけにはいかない。
それは練習に練習しているうちに、スッとなってくるのです。

悲しみが起ったら世界平和、
怒りが起ったら世界平和、
恨みが起ったら世界平和、
病気になったら世界平和。
すべては世界平和の祈りの中で生きているのです。

  病める人病みたるままに先ず祈れ 世界平和の神の祈り言(のりごと)
  迷ひ心迷へるままにまづなさめ 世界平和を祈る神言(かみごと)

という歌の通り、すべてが世界平和の祈りの中で生活している。

そうすると世界平和だけしかなくなっちゃって、
自分の想いがその世界平和の祈りの中へ入っちゃうんですよ。

そうして良くなった人がたくさんあるのです。 』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

五井先生は常に、
「 神様( 守護霊守護神 )の中へ入りなさい、
  想いを持ったままでいいから世界平和の祈りの中へ入りなさい 」
ということを教えて下さっていますが、
今回のお話の中でも、
「 守護霊様ありがとうございます、守護神様ありがとうございます、
  といつも思いなさいというのです。
  神様を100パーセント思うのです 」
と、おっしゃっています。

私は、ふだん何でもない時は、
「 守護霊様ありがとうございます、守護神様ありがとうございます 」
「 守護霊様守護神様ありがとうございます 」
と、お礼を言っているのですが、
嫌な事があった時や、体調が悪くて辛い時などは、
「 守護霊様!守護霊様!守護霊様!…… 」 と、
一番近い守護霊様をひたすら呼び続け、すがりついています。
そうしていると、守護霊様が、
息を長ーく吐かせて下さり ( 呼吸を整えて下さり )
息を長ーく吐きながら世界平和の祈りをゆっくり唱えさせて下さいます。
息を長ーく吐きながら消えてゆく姿の教えを思い出させて下さいます。
すべて守護霊様が導いて下さいます。
五井先生は次のようなお話もして下さっています。

「 親鸞上人の、師、法然上人に対する 
 〝 御坊に従って例え地獄へ堕ちたとてかまわない 〟
  という信仰を守護霊にすることです。
  それほどまで信じて、例え死んだとて、
  その人は死を超え、業を超えて、
  神様に生命をまかせ切っているのですから、神界行きです。
  しかし、そのような信仰を持った人を神様は死なせはしませんよ。
  守護霊の導きに従って悪い事が現れた時、動揺してはいけません。
  これで業が消えてゆく、必ずよくなると、
  その信仰をあくまで堅持することです。
  これが天とつながる道なのです。
  失敗しようが人に悪口を言われようが、
  唯々守護霊を信じきることです。
  信ずることより他にはないのです 」
                       ( 「 生命(いのち)光り輝け 」 48、49ページより )

私は守護霊守護神を100パーセント信じています。
でも〝 信 〟の深さ、言い換えれば感謝の深さに限りはありません。
ですからもっともっと深く、どこまでも深めてゆきたいと思っています。
そしてその事も全部守護霊様にまかせてしまいました。
「 守護霊守護神様への感謝の心が、限りなく深まってゆきますよう、
  どうか、よろしきようにお導き下さい 」 と。

今、CDで大好きなクラシックの名曲を聴きながら、
世界平和の祈りを、静かに、ゆっくりと唱えています……
ありがたいです……。

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうぞこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和


真の宗教の道

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 責めてはいけません 」
   28ページ11行目から31ページ6行目まで >

『  「 消えてゆく姿 」があって、守護霊守護神があって、
守護霊守護神の梯子によって、はじめて神さまの子が出来てくるわけです。

だから人間神の子完全円満と言葉で云ったって、
そんなものでは神の子にもなんにもなりはしない。

守護霊守護神と一つになって、業想念を乗りこえた時、
はじめて神の子が現われるんです。

それを守護霊守護神を通さないで業想念をぬけないで、
業想念の三界の渦の中にいて、
人間は神の子、病気なし貧乏なしとやったって、
それは只ほえているだけにすぎない。

それではちっとも本当のものにならない。

≪ 中略 ≫

いつも言うけれど、親鸞聖人みたいに、あんな勉強した人でも、
〝 ああ自分は罪悪深重の凡夫だから、
阿弥陀さまにすがるより仕方がないんだ 〟と阿弥陀さまの中へ入った。

入っちゃったら、今度は阿弥陀さまのほうが、
阿弥陀さまになって親鸞が生きたわけです。

弥陀の心を心として親鸞が生きた。

親鸞の教えを聞いた人達は、
農家の学問のなかった人や下駄屋の無学の職人だったりした。

そういう人でも念仏によって、阿弥陀さまの中に入りこんだ。

阿弥陀さまが自分となって生きている、
ああ自分が生きているのは阿弥陀さまがここに生きているんだ、
自分が働いているのは阿弥陀さまが働かしてくれるんだ、
という風に阿弥陀さまと一つになって、安心立命していた、
という実例があります。

妙好人と言いまして、そういう話が随分あります。

何故安心立命したかというと、神様の中へ全部入っちゃったから。

それが法然親鸞の場合は、南無阿弥陀仏と言って、
阿弥陀さまに全部想いを託した、全託したわけです。

阿弥陀さまに全部託したところから、南無阿弥陀仏が生きてきたわけです。

ところが現代になりますと、
南無阿弥陀仏というのは、死骸にばかりあげているような気がしている。

病人の枕許でいっぺんやってごらんなさい。
「 お見舞いにまいりました。南無阿弥陀仏 」
なんだか死んじゃったような気がするもん(笑)まずいでしょう。

何故そうなったかというと、
南無阿弥陀仏が光明燦然と使われないで、
お葬式や法要ばかりにあげるような経文みたいになってしまったからです。
そうすると、そういうような想いがみなぎってしまう。

≪ 中略 ≫

人間の想いというのは面白いもので、習慣になってきちゃうからね。
そこでそれじゃ駄目だと、どこへ一体想いを集中させればいいか、
どういうようにすればいいか?

神さま!とただ言うんじゃ駄目ですね。

神さまというのは宇宙に充満しているから、
ただ神さま!と言っても神さままでなかなか心が届かない。

そこで私は守護霊守護神をたてた。

実際に生きて働いているんですから。

それから祈りとしては、世界平和の祈りをしたわけです。

世界平和の祈りは何故いいかと言ったら、最もわかりやすい。
だから最も想いが入りやすい。

〝 世界人類が平和でありますように 〟
それだけ繰り返したっていいんだから。  』



< 五井昌久著 「 責めてはいけません 」
   120ページ6行目から122ページ10行目まで >

『  誰も彼も何の抵抗もなく、ためらいもなく思えるものは、
世界平和なのですね。

南無阿弥陀仏ではない。
南無妙法蓮華経ではない。
ナムカラタンノーではない。
アーメンではない。

それらはその一つの宗派宗派にしか通用しない。
その宗派以外の人は対抗的に思いますからね。

宗教のカルマというものはひどいもので、
自分の宗派というのは絶対なのですよ。

日蓮宗は南無妙法蓮華経が絶対なのです。

南無阿弥陀仏は真宗浄土宗では絶対なのです。

そこに入っている人にですよ。

そうすると宗教をやっているがために、かえって派閥が生れてくる。
それが宗教的カルマというのです。

≪ 中略 ≫

人間は生命において、平等であるという教えの根本が、
そこで区切れてしまうわけです。

ところが、〝 世界人類が平和でありますように 〟
という世界平和ということになると、どこにも垣がない。

世界平和を願わないものはない。

世界平和を想う時には、
インドだろうが、イギリスであろうが、アメリカであろうが、日本であろうが、
みんな一つの想いになれるわけです。

みんなの心が一つの目的に向ってゆく、

そういうものでないと、あらゆる民衆、人類が救われる道が出て来ないのです。

≪ 中略 ≫

方法論として世界平和の祈りを提唱したかというと、そうではない。

世界平和の祈りをすれば、救世の大光明が輝くという前提があるのです。

南無阿弥陀仏というと、阿弥陀さまがちゃんと救ってくれるという、
阿弥陀さまの光が輝くと同じように、

世界平和の祈りをすれば、救世の大光明がその人の体を通して、
横(人類)に流れてゆく、というように約束されているし、実際にそうなっているのです。  』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

五井先生は、今回のお話の中でも、
「 宗教のカルマというものはひどいもので…… 」
とおっしゃっていますが、一宗一派という形があると、
大調和の神仏のみ心から外れがちになってしまう、
という事はよくお話しされています。
次のような文章も書いて下さっています。

「 世には、何々の神でなければいけない。何々仏でなければ救われない
  などといって、宗派争いをしている人々もありますが、
  実に馬鹿気きったことでありまして、
  宗教の道は、自己の本心開発の為に必要なのであり、
  宇宙心(神)のみ心を自己の心として生きてゆける道が
  宗教の道なのであります。
  
  要するに、常に自分の心が済みきって神のみ心に通い合っている、
  ということが必要なので、≪ 中略 ≫
  善に把われようと、悪に把われようと、どちらにしても、
  曇りができた場合には、その曇りを、
  瞬々刻々はらい浄めておかなくてはいけないのです。
 
  それを私は、消えてゆく姿として、
  神様のみ心の中で消し去って頂くようにしているわけです。≪ 中略 ≫
  世界人類が平和でありますように、という祈り言にのって、
  神のみ心に心の波長を合わせるわけです。
  すると、巧まずして、神と人との心の波長がぴったり一つに合致しまして、
  神我一体のひびきがこの宇宙に鳴りひびくことになるのです。
  そこで、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という道が、
  そのまま真の宗教の道となってくるのであります。
 
  この祈りには何々神も何々仏もいらないのです。
  ただ常に自分を守って下さっている 
  守護の神霊への感謝があるのみなのです 」
                        ( 「 生きている念仏 」 51、52ページより )

〝 消えてゆく姿で世界平和の祈り 〟という真の宗教の道へ導いて下さったのは
守護霊守護神様です。
又、世界平和の祈りを祈らせて下さっているのも( 祈って下さっているのも )
守護霊守護神様です。
そのように思って「 守護霊様守護神様!ありがとうございます…… 」
と、ほほえみ合いながらお祈りしていたら、
〝 私が祈ることによって、本当に世界人類が救われていってるんだ 〟
と、大確信できるようになってきました。

ここで、今回載せさせて頂いたお話の最後の所をもう一度書きながら、
このことをしっかりと心の中に入れておこうと思います。

「 世界平和の祈りをすれば、救世の大光明が
  その人の体を通して、横(人類)に流れてゆく、
  というように約束されているし、
  実際にそうなっているのです 」

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうぞこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和

妙好人

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   15ページ12行目から21ページ4行目まで >

『  浄土門の信徒の中に、妙好人(みょうこうにん)といわれる人々があります。

この人々は比較的学問知識にとぼしく、
文字もろくに書けぬような農民や職人たちの中に多いのです。

この人たちは、学問知識から宗教の門に入ったのではなく、
先達の説法を聴聞しつづけ、
たゆみなき称名念仏のうちに阿弥陀仏と一つになっていった人々であります。

妙好とは、もと蓮花の美わしさを歎称しての言葉であるが、
それを人間に移して、その信仰の美わしさに喩えたのである、
と鈴木大拙博士がいわれていますが、

この人たちの日常生活が、そのまま美しく浄らかであり、
純真そのものであって、安心立命の姿であったようです。

このような妙好人が、
自力門といわれる天台や禅宗からは出ずに、
他力門である、浄土真宗から多く出ていることは、

自力門、聖道門といわれる天台や禅宗あたりが、
一度びは理論的な智慧才覚を通らないと、なかなか判りにくいことと、

一般大衆が日常生活そのままで、
その道を行ずるということは到底出来難いということにあるのでしょう。

浄土門、いわゆる他力門は、
如何なる煩悩をもったままでも、南無阿弥陀仏と唱えていさえすれば、
すべて浄土に救いとられるのである、といわれているので、

どんな無学な者でも入り得る道なのであり、
日常生活そのままで、救われの道に入り得るわけであります。

鈴木大拙選集の中に、才市という妙好人が書かれてありますが、

この才市はあやしげな仮名文字よりしか書けぬような無学な下駄職人でありますが、
念仏一念から入ったその悟りの境地は、
昔の聖者、聖人たちの境地に匹敵するものであるのには驚かされます。

次に同著によって一、二例を挙げてみますと、

  ほどけが、ほどけを、をがむこと
  なむがあみだに、をがまれて
  あみだがなむに、をがまれて
  これが、帰命(きみょう)の、なむあみだぶつ。
  やみが、つき(月)になるこた、できぬ
  つきに、てらされ、つきになる
  さいちがほどけになるこた、できぬ
  名号ふしぎに、てらしとられて、
  なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

というような覚書を才市が書いています。

この心境は、実に宗教の根本を真実に知った者でなければいえない境地で、
自己と仏との一体観を如実に直覚している言葉であります。

私が常に説いておりますように、
自己の内部にある仏(本心)が、外部にあるように見える、
神仏(守護の神霊を含めて)を拝むのが真の祈りであり、

業想念、つまり闇が、神仏、月になることは出来ない。

才市にいわせれば、月にてらされ月になる、で、

神仏と本心が照し合って、
真実の人間が、神の子人間が顕現するのであって、
業想念の才市、つまり肉体人間が月(神仏)になることは出来ない。

その方法は、只一つ、名号不思議に照らしとられる、

つまり、阿弥陀仏(神仏)にはじめから救われているのだから、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えてさえいれば、
いつか阿弥陀仏と一つになってしまうのだ、ということなのであります。

この境地は、聖道門、自力の聖者たちが、
難行苦行をして後に達し得た境地と全く等しいものなのであって、
他力行念仏の成果をはっきり現わしております。

≪ 中略 ≫

才市という人は、本心と業想念とをはっきり区別していて、
他の覚書では、

自己をあさまし、あさまし、じゃけん、じゃけん、
邪悪驕慢の悪才市と口ぎたなく、ののしっております。
そしてそのような才市(業想念)から一躍、

  これが親のなむあみだぶつ
  これがわたしのなむあみだぶつ
  これが世界のなむあみだぶつ
  これが虚空(こくう)のなむあみだぶつ 
  わしの世界も虚空も一つ
  親のこころのかたまりで出来た
  心に収め取られて、これがあんしん

と、自己の世界も虚空も一つである、という大乗的大自覚になっているのであります。

業想念はそのまま消え去るもの、
本心は仏と一つである、ということを、
この無学の才市翁は、はっきり自覚していたのであります。

≪ 中略 ≫

昭和八年に亡くなった才市という人が、
念仏一筋で、これだけの境地に到達し得たということは、
宗教信仰者の大なる光明であります。

南無阿弥陀仏という称名を天と地をつなぐ柱にして、
この才市翁は、天地一体の生活を身心に行じ得たのであります。

才市翁の言葉をもう一つぬき書きさせて頂くと、

  当流の安心は、好いのがでても、
  それをよろこぶじゃない、またわるいのがでても、それをくやむじゃない、
  ただ仰いで、頭を下げて、尊むばかり

ともあります。

それらはみんな消えてゆく姿、
只真実にあるのは神仏の姿だけである。

自己の本心の輝きだけである。

だから、何が出てきても、
神仏への感謝、万物への感謝をつづけておるだけだ、
という、私の教と全く一つであるのです。 』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

私は五井先生の教えに出会うまで、妙好人のことを知らなかったのですが、
実にすばらしい方々だったようです。
五井先生は次のように書いていらっしゃいます。

「 妙好人とは、白蓮華のような人という意味で、
  その想念行為の浄く美しい、業(カルマ)を超えた人々のことをいうのです 」
                           ( 「 生きている念仏 」 27ページより )

「 宗教の道は理屈でもなければ、上手な言葉のやりとりでもない、
  只神仏のみ心に沿った行いにある、と私はいつでも申しますが、
  浄土門に多い妙好人たちの生き方は、
  如来様のみ心そのままの生き方で、
  私は常にその行動に強い感動をおぼえるのです 」
             ( 「 生きている念仏 」 44ページより )

「 妙好人の殆んどが、地位や学識経験者でない、農家の人とか、
  手仕事でその日を送る人々とかいう平凡な生活の人々なのですが、
  如来(神)を信ずる心の厚いことは、赤児の母を慕う心に加えて、
  敬虔なる祈り心そのままが、全生活ににじみ出ているのでありまして、
  その行為が自ずと人々の鑑(かがみ)となるのです。
  地位や学識のある人々が、この妙好人のような生活を行ったとしたならば、
  その影響するところは更に大きく広がってゆくものと思いますが、
  地位や学識がありますと、かえってその地位や学識が邪魔をして、
  妙好人のような赤児の心にはなりにくいのであります。
  そこで聖賢たちは、口々に、
  小智才覚を捨て去ることを教えているのです 」
                       ( 「 生きている念仏 」 54、55ページより )

〝 赤児の心 〟と書かれていますが、
皆様、守護霊守護神のことを教わっている私達は、
〝 赤児の心 〟になる事はそれほど難しくないのではないでしょうか。
「 魂の親であり、親の親である、守護霊守護神がいつも守っているよ 」
と、五井先生は常に教えて下さっています。
守護霊守護神は、私達がこの世に生まれてくる前から、
肉親の愛情どころではない絶対の愛、底知れぬ無限の愛で、
ずーっと守り続けて下さっているのです。
過去世のことも未来のことも全部お分かりの守護霊守護神様が、
愛の光で私を包み込んで守り導いて下さっているんだ、と思うと、
とても慕わしい気持で 「 守って下さってありがとうございます 」
と、守護霊守護神様の奥深くへ顔をうずめたくなります。

「 守護霊様守護神様、妙好人のように清らかな魂の持ち主になれますよう、
  どうか一切をよろしきようにお願い致します 」
と、やわらかな大慈愛の光に抱きつきながら、
安心して世界平和のお祈りをさせて頂いております。
……ありがたいです……

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうかこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和
 
プロフィール

たかひろ

Author:たかひろ
昭和31年生まれ
職業 税理士
現在 兵庫県芦屋市在住
妻と二人暮らし
趣味 音楽鑑賞

    妻
昭和38年生まれ
専業主婦
趣味 ピアノ

≪このブログは妻との合作です≫

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