妙好人

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   15ページ12行目から21ページ4行目まで >

『  浄土門の信徒の中に、妙好人(みょうこうにん)といわれる人々があります。

この人々は比較的学問知識にとぼしく、
文字もろくに書けぬような農民や職人たちの中に多いのです。

この人たちは、学問知識から宗教の門に入ったのではなく、
先達の説法を聴聞しつづけ、
たゆみなき称名念仏のうちに阿弥陀仏と一つになっていった人々であります。

妙好とは、もと蓮花の美わしさを歎称しての言葉であるが、
それを人間に移して、その信仰の美わしさに喩えたのである、
と鈴木大拙博士がいわれていますが、

この人たちの日常生活が、そのまま美しく浄らかであり、
純真そのものであって、安心立命の姿であったようです。

このような妙好人が、
自力門といわれる天台や禅宗からは出ずに、
他力門である、浄土真宗から多く出ていることは、

自力門、聖道門といわれる天台や禅宗あたりが、
一度びは理論的な智慧才覚を通らないと、なかなか判りにくいことと、

一般大衆が日常生活そのままで、
その道を行ずるということは到底出来難いということにあるのでしょう。

浄土門、いわゆる他力門は、
如何なる煩悩をもったままでも、南無阿弥陀仏と唱えていさえすれば、
すべて浄土に救いとられるのである、といわれているので、

どんな無学な者でも入り得る道なのであり、
日常生活そのままで、救われの道に入り得るわけであります。

鈴木大拙選集の中に、才市という妙好人が書かれてありますが、

この才市はあやしげな仮名文字よりしか書けぬような無学な下駄職人でありますが、
念仏一念から入ったその悟りの境地は、
昔の聖者、聖人たちの境地に匹敵するものであるのには驚かされます。

次に同著によって一、二例を挙げてみますと、

  ほどけが、ほどけを、をがむこと
  なむがあみだに、をがまれて
  あみだがなむに、をがまれて
  これが、帰命(きみょう)の、なむあみだぶつ。
  やみが、つき(月)になるこた、できぬ
  つきに、てらされ、つきになる
  さいちがほどけになるこた、できぬ
  名号ふしぎに、てらしとられて、
  なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。

というような覚書を才市が書いています。

この心境は、実に宗教の根本を真実に知った者でなければいえない境地で、
自己と仏との一体観を如実に直覚している言葉であります。

私が常に説いておりますように、
自己の内部にある仏(本心)が、外部にあるように見える、
神仏(守護の神霊を含めて)を拝むのが真の祈りであり、

業想念、つまり闇が、神仏、月になることは出来ない。

才市にいわせれば、月にてらされ月になる、で、

神仏と本心が照し合って、
真実の人間が、神の子人間が顕現するのであって、
業想念の才市、つまり肉体人間が月(神仏)になることは出来ない。

その方法は、只一つ、名号不思議に照らしとられる、

つまり、阿弥陀仏(神仏)にはじめから救われているのだから、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えてさえいれば、
いつか阿弥陀仏と一つになってしまうのだ、ということなのであります。

この境地は、聖道門、自力の聖者たちが、
難行苦行をして後に達し得た境地と全く等しいものなのであって、
他力行念仏の成果をはっきり現わしております。

≪ 中略 ≫

才市という人は、本心と業想念とをはっきり区別していて、
他の覚書では、

自己をあさまし、あさまし、じゃけん、じゃけん、
邪悪驕慢の悪才市と口ぎたなく、ののしっております。
そしてそのような才市(業想念)から一躍、

  これが親のなむあみだぶつ
  これがわたしのなむあみだぶつ
  これが世界のなむあみだぶつ
  これが虚空(こくう)のなむあみだぶつ 
  わしの世界も虚空も一つ
  親のこころのかたまりで出来た
  心に収め取られて、これがあんしん

と、自己の世界も虚空も一つである、という大乗的大自覚になっているのであります。

業想念はそのまま消え去るもの、
本心は仏と一つである、ということを、
この無学の才市翁は、はっきり自覚していたのであります。

≪ 中略 ≫

昭和八年に亡くなった才市という人が、
念仏一筋で、これだけの境地に到達し得たということは、
宗教信仰者の大なる光明であります。

南無阿弥陀仏という称名を天と地をつなぐ柱にして、
この才市翁は、天地一体の生活を身心に行じ得たのであります。

才市翁の言葉をもう一つぬき書きさせて頂くと、

  当流の安心は、好いのがでても、
  それをよろこぶじゃない、またわるいのがでても、それをくやむじゃない、
  ただ仰いで、頭を下げて、尊むばかり

ともあります。

それらはみんな消えてゆく姿、
只真実にあるのは神仏の姿だけである。

自己の本心の輝きだけである。

だから、何が出てきても、
神仏への感謝、万物への感謝をつづけておるだけだ、
という、私の教と全く一つであるのです。 』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

私は五井先生の教えに出会うまで、妙好人のことを知らなかったのですが、
実にすばらしい方々だったようです。
五井先生は次のように書いていらっしゃいます。

「 妙好人とは、白蓮華のような人という意味で、
  その想念行為の浄く美しい、業(カルマ)を超えた人々のことをいうのです 」
                           ( 「 生きている念仏 」 27ページより )

「 宗教の道は理屈でもなければ、上手な言葉のやりとりでもない、
  只神仏のみ心に沿った行いにある、と私はいつでも申しますが、
  浄土門に多い妙好人たちの生き方は、
  如来様のみ心そのままの生き方で、
  私は常にその行動に強い感動をおぼえるのです 」
             ( 「 生きている念仏 」 44ページより )

「 妙好人の殆んどが、地位や学識経験者でない、農家の人とか、
  手仕事でその日を送る人々とかいう平凡な生活の人々なのですが、
  如来(神)を信ずる心の厚いことは、赤児の母を慕う心に加えて、
  敬虔なる祈り心そのままが、全生活ににじみ出ているのでありまして、
  その行為が自ずと人々の鑑(かがみ)となるのです。
  地位や学識のある人々が、この妙好人のような生活を行ったとしたならば、
  その影響するところは更に大きく広がってゆくものと思いますが、
  地位や学識がありますと、かえってその地位や学識が邪魔をして、
  妙好人のような赤児の心にはなりにくいのであります。
  そこで聖賢たちは、口々に、
  小智才覚を捨て去ることを教えているのです 」
                       ( 「 生きている念仏 」 54、55ページより )

〝 赤児の心 〟と書かれていますが、
皆様、守護霊守護神のことを教わっている私達は、
〝 赤児の心 〟になる事はそれほど難しくないのではないでしょうか。
「 魂の親であり、親の親である、守護霊守護神がいつも守っているよ 」
と、五井先生は常に教えて下さっています。
守護霊守護神は、私達がこの世に生まれてくる前から、
肉親の愛情どころではない絶対の愛、底知れぬ無限の愛で、
ずーっと守り続けて下さっているのです。
過去世のことも未来のことも全部お分かりの守護霊守護神様が、
愛の光で私を包み込んで守り導いて下さっているんだ、と思うと、
とても慕わしい気持で 「 守って下さってありがとうございます 」
と、守護霊守護神様の奥深くへ顔をうずめたくなります。

「 守護霊様守護神様、妙好人のように清らかな魂の持ち主になれますよう、
  どうか一切をよろしきようにお願い致します 」
と、やわらかな大慈愛の光に抱きつきながら、
安心して世界平和のお祈りをさせて頂いております。
……ありがたいです……

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうかこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和
 

念仏、そして世界平和の祈り

                     < 世界平和の祈り >

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                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   122ページ4行目から123ページ3行目まで >

『  親鸞は、悟りとか救いとかいうものは、
業想念の波を相手にして、いいの悪いのと言っていたのでは、
いつまでたっても、成就するものではない、

この業想念波というものを、一切相手にしないことによって、
初めて悟りとか救われの道とかに入り得るのだ、
ということが判っていたのです。

業想念波を相手にしなければ、
相手にするものは、神仏よりなくなってきます。

神仏だけを相手にしていれば、
自分もいつの間にか神仏と等しいものになってくるのは必定です。

そこで、幸いに法然上人という偉大なる師が現われて、
自分より先に、そうした原理を説いて、
念仏一念の生活に大衆を導き入れているのを知り、

すっかり感動して、弟子入りして、法然の教を一歩進め、
自己を一般大衆と同じ立場に落して、
体験としての易行道(いぎょうどう)の教を開いたのであります。

法然門下には傑出した人々がかなりいたのですが、
親鸞のように、自ら一般人と同じように妻帯して、
俗人と同じ立場に身を置く程に易行道に徹した人がいなかったようです。

この辺が親鸞をして今日まで不朽の名を残さしめている所以でありましょう。

大衆は自分たちの身近な行為の人として、
親鸞に親しみをおぼえているのであります。  』


< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   116ページ4行目から118ページ3行目まで >

『  今でこそ僧侶の妻帯などなんでもないことですが、
その頃において、公然と妻をめとったということは、

あらゆる世間の嘲笑罵倒を覚悟の上、
僧侶としての信用下落も覚悟の前という大決意をもってなされたもので、

親鸞の自己をいつわらぬ、
肉体界における人間生活の本然の生活をはっきりと打ち出した上での、
宗教活動に挺進しようという、
すさまじいまでの真正直な姿がその行為にはっきりとみられるのです。

≪ 中略 ≫

親鸞のように、真正直に自分の心を見つめ続けている人にとっては、
どんなに精進しても、どんなに努めても、
人間の心には執拗に業想念がからみついていることが判るのです。

≪ 中略 ≫

どうしても空(くう)のままの、澄み切った想念行為で、
いつの日も暮らしていられるような人間にはなれない。

何かしら、いつも心にわだかまる想いがある。

親鸞にとっては、そうした少しのわだかまりでもが、
神仏に相済まぬ悪い心と思えていたようなのであります。

そして、そういう風に思えたればこそ、
自己を罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫として、

一度は本心と切り離して、いかに自分が精進して、
自力をもって、自分の心にまつわる業想念をふりはらおうとしても、
とても本心そのまま、み仏そのままの生き方ができるものではない。

自分は兎にも角にも、宗教学をさんざん修め、
様々な修業をしてきた人間だが、
その自分さえ、こんなに業想念を自力ではらうことができないのだから、

一般の人々、日常の生活に追われて、
まとまった修業のできない人々にとっては、
なおさらに自力で業想念ははらいきれない。

だから、すべての想念行為を、
善いも悪いもすべて南無阿弥陀仏の唱名に乗せて、
阿弥陀仏(神)の光明の中に投げ入れてしまい、

阿弥陀様の方から、改めて自分の全生活を頂きなさい、と、
自分の心の遍歴を通した実感として、
易行道念仏の道を説かれていたのが、親鸞の姿であったのです。 』


< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   23ページ14行目から25ページまで >

『  念仏も世界平和の祈りも、深い原理においては等しいのでありますが、

世界平和の祈りは祈りの言葉そのものが、
現代人の誰にでもはっきり意味の判る言葉であり、

その言葉は、何人も異議を申立てることの出来ない内容をもっていることが、
念仏より一般的であり、世界各国人にも理解出来る言葉でもあるのです。

もし米国人が祈る場合には、日本というところを米国とすればよいでしょう。
( 註……この祈りの日本の平和というところの日本という意味は、
  この島国日本という意味ではないのですが )

しいて誰かが文句を言うならば、
何も守護霊、守護神などと言わずに、はっきり神と言えばよいではないか、
神は世界に一つなのだから、余計な霊や神を想う必要はない、
というところでしょうが、

この守護霊、守護神への感謝行こそ、
この祈りの一番意味深いところなのです。

しかし、その名を言うのが嫌な人は、
只、神様ありがとうございます、でも結構でありますが、

そういう人々でも、やがては、守護霊、守護神への感謝行が如何に大切であり、
守護霊、守護神が如何に人類を守り続けて下さるかが、はっきり判ってきて、

いつの間にか、神という言葉の中に、
守護霊、守護神の存在を認めざるを得なくなることでありましょう。

神は一神であって多神であることを忘れてはなりません。

また、我等の祖先や先輩霊が、人類救済の為に、
一心に我等の本心開発の指導者として働いておられることを忘れてはなりません。

私は世界潰滅の危機を救うのは、
自我の想念を世界平和の祈りの中に投入して、
日常茶飯事のうちにもその祈りを続けてゆくことを根柢にしての
生き方でなければならないと確信しているのであります。

自己をも世界をも同時に救う方法、
それは世界平和の祈りによる他はないと思うのです。  』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

五井先生は常に、
「 たとえ何があろうと、どんな想いが出てこようと、
  神様( 守護霊守護神 )の中へ入りなさい 」
ということを教えて下さっていますが、
ある講話集の中で、次のようなお話をなさっています。

「 そういう風に教えた一番初めの人は日本においては、法然上人です。
  それを受けついだのは親鸞です。
  人間というものは、いい事をしようと思っても悪い事が心に浮んでくる。
  あれを憎むまいと思っても憎む想いが浮んでくる。 ≪ 中略 ≫
  罪悪深重の人間がいくら努力しても、
  いくら修行したって、少しは消えるかもしれないけれど、
  いつまでたっても一向に消えやしない。
  それよりも、罪悪深重の凡夫のままで、悪いものを持ったままで、
  怒りの心を持ち、妬みの心を持ち、業に流れる心を持ち、
  そういう想いを持ったままで、
  阿弥陀さま!と言って阿弥陀さまの中へ入っちゃえば、
  阿弥陀さまは光一元だから、光明如来だから、
  どんな汚れも、どんな罪もけがれも一ぺんに消えちゃうんだ。
  だから阿弥陀さま、と思いなさい、
  南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言いなさい、と
  こう教えたのです。 ≪ 中略 ≫
  それをもっと言い換えれば、
  阿弥陀さまではキリスト教の人は困ります。
  日蓮宗の人も困るでしょう。神道の人も困るでしょう。
  そこで守護霊さん守護神さんという、どこでも使っている言葉を使い、
  守護霊さん守護神さんと言えば、
  その中に自分の想いが入ってしまうのだから、
  守護霊守護神の救世の大光明をけがすほどのものはないのだ、
  守護霊さん守護神さん、というふうにすがりなさい、
  と教えているんです 」
                  ( 「 明るい心 」 71ページから73ページより )

私は、五井先生のご著書を読むようになってから、
法然さんや親鸞さんに親しみを覚えるようになりました。

今、守護霊守護神様の中で世界平和の祈りを唱えながら、
「 守護霊様守護神様、五井先生は
 〝 世界平和の祈りには、あらゆる聖者賢者が結集して働いておられる 〟
  と教えて下さっていますが、もちろんその中には
  法然さんや親鸞さんもいらっしゃるのですよねえ 」
と語りかけると、守護霊守護神様は深くうなずいて、
【 今もここに来て下さっていますよ 】
とおっしゃっているような気がしました。
私は嬉しくなって、身体がポカポカしてきて
また、何だかとても楽しくなってきました。

「 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……ありがとうございます……
  世界人類が平和でありますように ― 」

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうかこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和
プロフィール

たかひろ

Author:たかひろ
昭和31年生まれ
職業 税理士
現在 兵庫県芦屋市在住
妻と二人暮らし
趣味 音楽鑑賞

    妻
昭和38年生まれ
専業主婦
趣味 ピアノ

≪このブログは妻との合作です≫

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