世界に明るい道を開いてゆこうではありませんか
< 世界平和の祈り >
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
< 五井昌久著 「 自然 大生命の絵巻 2 」
62ページから63ページまで >
『 昱修庵(いくしゅうあん)の庭にて
地球世界の混乱の治まる気配さらになく、ますます激化している今日、
私は世界平和の特別の祈りのため、聖ケ丘(ひじりがおか)昱修庵に籠って、
日夜を限らず祈りつづけているが、その祈りの行の合間には、時折り庭に出てみる。
聖ケ丘の庭は、長年にわたって、素人ばなれした庭づくりの上手な、
田中勇吉さんという人を中心に、職員や奉仕の人たちの協力で、次第に形がととのってきた。
中には庭づくりの奉仕をしているうちに、体の非常に弱かった老婆が
何人か健康そのものになってしまった話まである。
私が種々な花が好きなので、昱修庵の庭は樹木や池や石などの配置の邪魔にならぬ限り、
草花もたくさん咲くようになっている。
いちいち名前を聞いては、すぐに忘れてしまうが、
可愛いい小さな花々が、歩いてゆく足下に小首をかしげて咲いていたりすると、
なんともいえず、愛らしく、いじらしい。
今朝も庭を歩いていると、今迄気づかずにいた場所に
寒紅梅のつぼみが三つ四つ五つとついていて、
中にはあどけなく紅の口を七八分開いた花片もあった。
また背丈けの低い、幼い木なのに、せい一杯、自分のいのちの花を咲かせようと、
寒風の中に毅然としている姿は、雄々しくもいとおしく、
よくやっているね、美しいね、と思わず口に出してしまった程である。
私はその幼い花に掌(て)をかざして、私たちを慰めてくれてありがとうよ、
と心から礼をいって、その場から歩みをうつしたが、
花の妖精が、嬉しそうに微笑(ほほえん)でいるのが心に残ってはなれなかった。
こんなに穢れのない自然のいのちを、人間の欲望に充ちた想いが、
常に汚しているかと思うと、神様に申し訳けない気がしてくる。
もっともそのための私たちの世界平和の祈りなのだから、
花の心を汚さぬためにでも、世界平和の祈りは必要なのである。
人間の心の汚れを、すっかりはらい浄めて、
自然と人間の気の交流がすっきりとなされるようになった時、
万物すべてが生きいきとしてくるのであろう。
やがてまた私は部屋に籠って祈り一念の私に入っていたのである。 』
< 五井昌久著 「 自然 大生命の絵巻 2 」
68ページから69ページまで >
『 新しい年に望む
この間六十一歳の誕生会を終えたと思ったら、もう六十二歳の正月に入るのである。
人類の業(ごう)を身に受けての、日々の祈りの生活で、
昱修庵を一歩も出られない、庭や道端の花々をみて歩きたいものだ、
というようなことを書いた詩を、
誕生会の日に、家内が泣きじゃくりながら話していたのを想い出しながら、
自然の大好きな私が、家の中に籠(こ)もりっきりでいるのだから皮肉なようにも思える。
しかしすべては神々の大きな計らい事なのだから、私には不平も不満もない。
だが希望としてはやはり自由に自然の姿をみて歩きたい。
今朝も家内の電話で、今年は雪山(せつざん)とかいう
白い山茶花(さざんか)の白がきわだって純白だった、という。
その理由は、冬に入っても気温が温かく朝霜(あさしも)が降りなかったので、
花が汚れなかったからだと、
家内はさも私にその純白の雪山を、みて貰いたかったというように話すのである。
そういえば、新しい年の気候や温度は、どういうことになってゆくのであろう。
今日(こんにち)までの気象があまりにも変わっていたので、一寸(ちょっと)気になるのである。
気になるといえば、気象のこともさりながら、世界の経済のこと、物資のこと、
それに自己本位に動きつづけている、人心(じんしん)の行きつく果(は)てなのである。
すべてのことがますます落ちつかなくなって、
地震さながらに、人心は動揺しつづけているのである。
こうした人心を落ちつかせるのには、地球の運命は大丈夫なのだ、
という責任のある誰かの声が必要なのである。
誰かといっても肉体の人間には、地球の運命を背負える人は存在しない。
そういう責任ある言葉は神々の言える言葉でしかない。
地球人類はもはや一時刻(いっとき)もかかさず、神々との交流をはっきりとしなければいけない。
新しい年は肉体人間が、神々との交流に成功する為に全力を挙げる年にしたいものである。
そうしなければ、地球人類の前途はますます暗いものになってしまうのである。
私たちはいよいよ真剣に世界平和の祈りを祈りつづけて、
世界に明るい道を開いてゆこうではないか。 』
< 感謝の言葉 >
皆様、あけましておめでとうございます。
いつも「 ぶりらんて 」をご覧下さり、心より感謝致しております。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今回は、五井先生(1916~1980)の随想集の中から、
二つ載せさせて頂きました。
昱修庵に籠りっきりで、地球の業を清め続けて下さった五井先生 ‥‥‥
私は今回の文章を、ひれ伏しながら読ませて頂きました。
最後の所に、「 私たちはいよいよ真剣に世界平和の祈りを祈りつづけて、
世界に明るい道を開いてゆこうではないか 」
と書かれていますが、
私は心の中で声を大にして、
「 五井先生、年も改まりましたので、心も新しくして、
今年はより一層しっかりと、五井先生の教えを行じ続けてまいります。
そして、〝 ぶりらんて 〟をご覧下さっている皆様と共に、
世界に明るい道を開いてまいります 」
と申し上げました。
皆様、今年もどうぞご一緒に、
世界平和の祈りを明るく朗らかに祈り続けてまいりましょう。
最後になりましたが、
このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます
どうぞこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます
< 五井昌久著 「 自然 大生命の絵巻 2 」
62ページから63ページまで >
『 昱修庵(いくしゅうあん)の庭にて
地球世界の混乱の治まる気配さらになく、ますます激化している今日、
私は世界平和の特別の祈りのため、聖ケ丘(ひじりがおか)昱修庵に籠って、
日夜を限らず祈りつづけているが、その祈りの行の合間には、時折り庭に出てみる。
聖ケ丘の庭は、長年にわたって、素人ばなれした庭づくりの上手な、
田中勇吉さんという人を中心に、職員や奉仕の人たちの協力で、次第に形がととのってきた。
中には庭づくりの奉仕をしているうちに、体の非常に弱かった老婆が
何人か健康そのものになってしまった話まである。
私が種々な花が好きなので、昱修庵の庭は樹木や池や石などの配置の邪魔にならぬ限り、
草花もたくさん咲くようになっている。
いちいち名前を聞いては、すぐに忘れてしまうが、
可愛いい小さな花々が、歩いてゆく足下に小首をかしげて咲いていたりすると、
なんともいえず、愛らしく、いじらしい。
今朝も庭を歩いていると、今迄気づかずにいた場所に
寒紅梅のつぼみが三つ四つ五つとついていて、
中にはあどけなく紅の口を七八分開いた花片もあった。
また背丈けの低い、幼い木なのに、せい一杯、自分のいのちの花を咲かせようと、
寒風の中に毅然としている姿は、雄々しくもいとおしく、
よくやっているね、美しいね、と思わず口に出してしまった程である。
私はその幼い花に掌(て)をかざして、私たちを慰めてくれてありがとうよ、
と心から礼をいって、その場から歩みをうつしたが、
花の妖精が、嬉しそうに微笑(ほほえん)でいるのが心に残ってはなれなかった。
こんなに穢れのない自然のいのちを、人間の欲望に充ちた想いが、
常に汚しているかと思うと、神様に申し訳けない気がしてくる。
もっともそのための私たちの世界平和の祈りなのだから、
花の心を汚さぬためにでも、世界平和の祈りは必要なのである。
人間の心の汚れを、すっかりはらい浄めて、
自然と人間の気の交流がすっきりとなされるようになった時、
万物すべてが生きいきとしてくるのであろう。
やがてまた私は部屋に籠って祈り一念の私に入っていたのである。 』
< 五井昌久著 「 自然 大生命の絵巻 2 」
68ページから69ページまで >
『 新しい年に望む
この間六十一歳の誕生会を終えたと思ったら、もう六十二歳の正月に入るのである。
人類の業(ごう)を身に受けての、日々の祈りの生活で、
昱修庵を一歩も出られない、庭や道端の花々をみて歩きたいものだ、
というようなことを書いた詩を、
誕生会の日に、家内が泣きじゃくりながら話していたのを想い出しながら、
自然の大好きな私が、家の中に籠(こ)もりっきりでいるのだから皮肉なようにも思える。
しかしすべては神々の大きな計らい事なのだから、私には不平も不満もない。
だが希望としてはやはり自由に自然の姿をみて歩きたい。
今朝も家内の電話で、今年は雪山(せつざん)とかいう
白い山茶花(さざんか)の白がきわだって純白だった、という。
その理由は、冬に入っても気温が温かく朝霜(あさしも)が降りなかったので、
花が汚れなかったからだと、
家内はさも私にその純白の雪山を、みて貰いたかったというように話すのである。
そういえば、新しい年の気候や温度は、どういうことになってゆくのであろう。
今日(こんにち)までの気象があまりにも変わっていたので、一寸(ちょっと)気になるのである。
気になるといえば、気象のこともさりながら、世界の経済のこと、物資のこと、
それに自己本位に動きつづけている、人心(じんしん)の行きつく果(は)てなのである。
すべてのことがますます落ちつかなくなって、
地震さながらに、人心は動揺しつづけているのである。
こうした人心を落ちつかせるのには、地球の運命は大丈夫なのだ、
という責任のある誰かの声が必要なのである。
誰かといっても肉体の人間には、地球の運命を背負える人は存在しない。
そういう責任ある言葉は神々の言える言葉でしかない。
地球人類はもはや一時刻(いっとき)もかかさず、神々との交流をはっきりとしなければいけない。
新しい年は肉体人間が、神々との交流に成功する為に全力を挙げる年にしたいものである。
そうしなければ、地球人類の前途はますます暗いものになってしまうのである。
私たちはいよいよ真剣に世界平和の祈りを祈りつづけて、
世界に明るい道を開いてゆこうではないか。 』
< 感謝の言葉 >
皆様、あけましておめでとうございます。
いつも「 ぶりらんて 」をご覧下さり、心より感謝致しております。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
今回は、五井先生(1916~1980)の随想集の中から、
二つ載せさせて頂きました。
昱修庵に籠りっきりで、地球の業を清め続けて下さった五井先生 ‥‥‥
私は今回の文章を、ひれ伏しながら読ませて頂きました。
最後の所に、「 私たちはいよいよ真剣に世界平和の祈りを祈りつづけて、
世界に明るい道を開いてゆこうではないか 」
と書かれていますが、
私は心の中で声を大にして、
「 五井先生、年も改まりましたので、心も新しくして、
今年はより一層しっかりと、五井先生の教えを行じ続けてまいります。
そして、〝 ぶりらんて 〟をご覧下さっている皆様と共に、
世界に明るい道を開いてまいります 」
と申し上げました。
皆様、今年もどうぞご一緒に、
世界平和の祈りを明るく朗らかに祈り続けてまいりましょう。
最後になりましたが、
このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます
どうぞこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように
世界人類が平和でありますように