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念仏、そして世界平和の祈り

                     < 世界平和の祈り >

                  世界人類が平和でありますように
                  日本が平和でありますように
                  私達の天命が完うされますように
                  守護霊様ありがとうございます
                  守護神様ありがとうございます




< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   122ページ4行目から123ページ3行目まで >

『  親鸞は、悟りとか救いとかいうものは、
業想念の波を相手にして、いいの悪いのと言っていたのでは、
いつまでたっても、成就するものではない、

この業想念波というものを、一切相手にしないことによって、
初めて悟りとか救われの道とかに入り得るのだ、
ということが判っていたのです。

業想念波を相手にしなければ、
相手にするものは、神仏よりなくなってきます。

神仏だけを相手にしていれば、
自分もいつの間にか神仏と等しいものになってくるのは必定です。

そこで、幸いに法然上人という偉大なる師が現われて、
自分より先に、そうした原理を説いて、
念仏一念の生活に大衆を導き入れているのを知り、

すっかり感動して、弟子入りして、法然の教を一歩進め、
自己を一般大衆と同じ立場に落して、
体験としての易行道(いぎょうどう)の教を開いたのであります。

法然門下には傑出した人々がかなりいたのですが、
親鸞のように、自ら一般人と同じように妻帯して、
俗人と同じ立場に身を置く程に易行道に徹した人がいなかったようです。

この辺が親鸞をして今日まで不朽の名を残さしめている所以でありましょう。

大衆は自分たちの身近な行為の人として、
親鸞に親しみをおぼえているのであります。  』


< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   116ページ4行目から118ページ3行目まで >

『  今でこそ僧侶の妻帯などなんでもないことですが、
その頃において、公然と妻をめとったということは、

あらゆる世間の嘲笑罵倒を覚悟の上、
僧侶としての信用下落も覚悟の前という大決意をもってなされたもので、

親鸞の自己をいつわらぬ、
肉体界における人間生活の本然の生活をはっきりと打ち出した上での、
宗教活動に挺進しようという、
すさまじいまでの真正直な姿がその行為にはっきりとみられるのです。

≪ 中略 ≫

親鸞のように、真正直に自分の心を見つめ続けている人にとっては、
どんなに精進しても、どんなに努めても、
人間の心には執拗に業想念がからみついていることが判るのです。

≪ 中略 ≫

どうしても空(くう)のままの、澄み切った想念行為で、
いつの日も暮らしていられるような人間にはなれない。

何かしら、いつも心にわだかまる想いがある。

親鸞にとっては、そうした少しのわだかまりでもが、
神仏に相済まぬ悪い心と思えていたようなのであります。

そして、そういう風に思えたればこそ、
自己を罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫として、

一度は本心と切り離して、いかに自分が精進して、
自力をもって、自分の心にまつわる業想念をふりはらおうとしても、
とても本心そのまま、み仏そのままの生き方ができるものではない。

自分は兎にも角にも、宗教学をさんざん修め、
様々な修業をしてきた人間だが、
その自分さえ、こんなに業想念を自力ではらうことができないのだから、

一般の人々、日常の生活に追われて、
まとまった修業のできない人々にとっては、
なおさらに自力で業想念ははらいきれない。

だから、すべての想念行為を、
善いも悪いもすべて南無阿弥陀仏の唱名に乗せて、
阿弥陀仏(神)の光明の中に投げ入れてしまい、

阿弥陀様の方から、改めて自分の全生活を頂きなさい、と、
自分の心の遍歴を通した実感として、
易行道念仏の道を説かれていたのが、親鸞の姿であったのです。 』


< 五井昌久著 「 生きている念仏 」
   23ページ14行目から25ページまで >

『  念仏も世界平和の祈りも、深い原理においては等しいのでありますが、

世界平和の祈りは祈りの言葉そのものが、
現代人の誰にでもはっきり意味の判る言葉であり、

その言葉は、何人も異議を申立てることの出来ない内容をもっていることが、
念仏より一般的であり、世界各国人にも理解出来る言葉でもあるのです。

もし米国人が祈る場合には、日本というところを米国とすればよいでしょう。
( 註……この祈りの日本の平和というところの日本という意味は、
  この島国日本という意味ではないのですが )

しいて誰かが文句を言うならば、
何も守護霊、守護神などと言わずに、はっきり神と言えばよいではないか、
神は世界に一つなのだから、余計な霊や神を想う必要はない、
というところでしょうが、

この守護霊、守護神への感謝行こそ、
この祈りの一番意味深いところなのです。

しかし、その名を言うのが嫌な人は、
只、神様ありがとうございます、でも結構でありますが、

そういう人々でも、やがては、守護霊、守護神への感謝行が如何に大切であり、
守護霊、守護神が如何に人類を守り続けて下さるかが、はっきり判ってきて、

いつの間にか、神という言葉の中に、
守護霊、守護神の存在を認めざるを得なくなることでありましょう。

神は一神であって多神であることを忘れてはなりません。

また、我等の祖先や先輩霊が、人類救済の為に、
一心に我等の本心開発の指導者として働いておられることを忘れてはなりません。

私は世界潰滅の危機を救うのは、
自我の想念を世界平和の祈りの中に投入して、
日常茶飯事のうちにもその祈りを続けてゆくことを根柢にしての
生き方でなければならないと確信しているのであります。

自己をも世界をも同時に救う方法、
それは世界平和の祈りによる他はないと思うのです。  』



< 感謝の言葉 >

皆様、ブログを見て下さってありがとうございます。

五井先生は常に、
「 たとえ何があろうと、どんな想いが出てこようと、
  神様( 守護霊守護神 )の中へ入りなさい 」
ということを教えて下さっていますが、
ある講話集の中で、次のようなお話をなさっています。

「 そういう風に教えた一番初めの人は日本においては、法然上人です。
  それを受けついだのは親鸞です。
  人間というものは、いい事をしようと思っても悪い事が心に浮んでくる。
  あれを憎むまいと思っても憎む想いが浮んでくる。 ≪ 中略 ≫
  罪悪深重の人間がいくら努力しても、
  いくら修行したって、少しは消えるかもしれないけれど、
  いつまでたっても一向に消えやしない。
  それよりも、罪悪深重の凡夫のままで、悪いものを持ったままで、
  怒りの心を持ち、妬みの心を持ち、業に流れる心を持ち、
  そういう想いを持ったままで、
  阿弥陀さま!と言って阿弥陀さまの中へ入っちゃえば、
  阿弥陀さまは光一元だから、光明如来だから、
  どんな汚れも、どんな罪もけがれも一ぺんに消えちゃうんだ。
  だから阿弥陀さま、と思いなさい、
  南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言いなさい、と
  こう教えたのです。 ≪ 中略 ≫
  それをもっと言い換えれば、
  阿弥陀さまではキリスト教の人は困ります。
  日蓮宗の人も困るでしょう。神道の人も困るでしょう。
  そこで守護霊さん守護神さんという、どこでも使っている言葉を使い、
  守護霊さん守護神さんと言えば、
  その中に自分の想いが入ってしまうのだから、
  守護霊守護神の救世の大光明をけがすほどのものはないのだ、
  守護霊さん守護神さん、というふうにすがりなさい、
  と教えているんです 」
                  ( 「 明るい心 」 71ページから73ページより )

私は、五井先生のご著書を読むようになってから、
法然さんや親鸞さんに親しみを覚えるようになりました。

今、守護霊守護神様の中で世界平和の祈りを唱えながら、
「 守護霊様守護神様、五井先生は
 〝 世界平和の祈りには、あらゆる聖者賢者が結集して働いておられる 〟
  と教えて下さっていますが、もちろんその中には
  法然さんや親鸞さんもいらっしゃるのですよねえ 」
と語りかけると、守護霊守護神様は深くうなずいて、
【 今もここに来て下さっていますよ 】
とおっしゃっているような気がしました。
私は嬉しくなって、身体がポカポカしてきて
また、何だかとても楽しくなってきました。

「 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……ありがとうございます……
  世界人類が平和でありますように ― 」

最後になりましたが、

このブログを見て下さる全ての方の守護霊様守護神様
本当にありがとうございます

どうかこのブログを見て下さる全ての方の
天命が完うされますように

世界人類が平和でありますように



             世界平和

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プロフィール

たかひろ

Author:たかひろ
昭和31年生まれ
職業 税理士
現在 兵庫県芦屋市在住
妻と二人暮らし
趣味 音楽鑑賞

    妻
昭和38年生まれ
専業主婦
趣味 ピアノ

≪このブログは妻との合作です≫

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